朝の光に☆ |
今日は息子のところに書類を届けようと思っていたが、
彼の都合が悪いらしい。
じゃあー本でも読むか・・と思うがなんだか気がすすまず、
ソウダ、ちょっと気になっていた、私が考えている母性、或いは父性と言うものを
それを書きながら考えてみましょうか。
今朝も4時くらいには朝日が射してきて
なんとなく、
庭の植物たちは、降り注がれる光のほうへと
顔を向けているように見えます・・?
多分母性と言うのは
こういう風に、命がうまれたとたんに、降り注がれる
太陽の光のようなもので、
依然書いた「命と命の出会いがしら」に起きる本能」のようなモンじゃろ・・・と
思います。
それは宇宙から来るエネルギーが生き物たちのからだを循環し
無条件に命をそだてているようなものだと思うのですが。
それとは別に
この人間社会のなかで、どうしたら共生し、
滅びないで生き延びれるか・・・を教えるのが
父性原理で、
これには深い観察や洞察力、そして考察する・・という脳の働きが
必要です。
自分が生きている現実のデーターを分析し、編集し論理化して、
自分の言葉で文脈化をしていく力。
人間はこの母性と父性というふたつの原理をもちながら
生きている・・・と思います。
母性原理のほうは、感情が主流にあり
父性原理のほうは、理性による考察が
イニシアチィブを取ります。
どちらも人間のなかにはあるのでしょうが、
わたしは自分が感情的な人間なので、
時々、自分や他人の中に流れる感情に
はっという美しさを感じることがあります。
いやおうもなく魅かれることが、ママあります。
美しい感情も
醜い感情も
その人や人々の感情の”さま”が
うつくしいなーと圧倒されるのです。
自分が女だからかなーと思ったりしますが、
言葉や文脈で表せられない、こころの情動で、
包み込まれる、
自分がその情動のなかに包み込まれる・・という感動があり、
それは多分
おおいなるものの掌につつみこまれて
無条件にふりそそがれる光のなかのような気がします。
縁があって6月のあたまに
岩手県遠野に遊びにゆくことになりました。
このブログが縁で知りあった方に会いにゆきます。
昨年の10月にも彼女にあい
宮沢賢治の、イギリス海岸や種山ケ原に案内していただきました。
そのときモー、
美しく黄色に実った田んぼを背にした
岩手の山と空と
さーっと吹きぬいてゆく風に包まれて
心の水面下の深い処が
癒されていきました。
こういう理屈ぬきの世界!
正解も不正解もない
ただただ命のであいがしらの関係!
そういうものを体内に宿しているからこそ
この感動があるのかなーと
思わされた世界でした。