私のゲーム? |
それぞれがゲームのパターンを持っていて、
その強い引力に呑みこまれて、ホボ無意識に
自分と相手のゲームにはまっていきます。
若い頃の私は、感情の起伏が激しく、また正義感がつよく
いつも、自分も相手も裁断してしてしまう
”迫害者”のゲームと、その反動ともいえる、
必要以上に自己犠牲をする、
”犠牲者”のゲームを、
表と裏にもっていました。
カウンセリングの交流分析を勉強したおかげで
自分のゲームのパターンと内容をしり
それからは、ゲームをやっている自分にふと
気がつき次第、ゲームを中止するということを
意識的にやりました。
ゲームをやっている人間どうしは
それなりにもっともらしい原因や説明を
自分や相手にしていますが、
ゲームの後味は、嫌な感じや、
不愉快な感情が残ります。
相手と会っている時は、そうでもないのですが
別れたあとや、自分ひとりになった時
なーんか不快感が残った時は
お互いが心理ゲームをやったからだと
思います。
以前このブログで書いたにカープマンの三角形というように
・迫害者
・犠牲者
・救援者(傍観者)
とそれぞれが役割を担いながらながらやるのですが、
今回の鳩山前総理などは、
傍観者(救援者)そのもので、
こういう人は、自分で窮地を切り開かず、
いつも傍観者で、現実と格闘しないため
自分が傷つかない代わりに
なーんも解決できない・・・という典型です。
なーんかみごとな傍観者でしたねえ・・・笑い!
こういう人はいつも自分が傷つかないように
高見の見物で、一見いいように見えますが、
その分、どんどん相手や他人の気持ちがわからなくなっていく。
つまり現実と係わらないから、感性が
にぶーくなって、人の気持ち(当事者の気持ち)が
解らないのですよ!
さて
迫害者と犠牲者のシーソーをギッコンバッタンこいでいた私は
自分の中にある迫害者的支配欲と
犠牲者の中にある依存を徹底的に
はずしていきました。
最も明らかに現れるのは
家族との関係で、まずここから
関係を修復していく。
家族の誰にたいしても、
支配欲を捨て、そして
依存をしない。
そして他者に対しては
過剰に自己犠牲的にある傾向がある自分を
そうしないで、
対等に接する。
対等と言うことは
相手の中にある生命力や自浄力を信頼する・・・と言うことです。
必要以上の手を貸さない、ださない。
まあそうは言っても、
なかなか難しいですけれど・・・笑い!
最近は
かなり突き放すことができるようになりました。
ほんとうは、突き放して
見守ることが
一番の愛情なんですね。
人間はそれぞれが自分の人生脚本を持っており
また自分の心の空白を埋めようと
愛情を求めてゲームをします。
そのために、たった一度きりの人生の時間を
もしかしたら、自分の空疎なゲームのために
浪費しているかもしれません。
できたら、
自分のゲームの内容に気づき
そこから抜け出して、
自分も相手も対等に生きる。
対等に助け合える・・・そんな
人生にしたいものだと
思います。