全肯定とは。 |
暑さで葉っぱばかりが茂っていた朝顔がまた元気に咲きはじめました。
それでも確実に夜明けは遅くなっています。
成功禁止令がかかっていない人は
はなから成功するにきまっていると思い込んでいるから
わが道を迷わず突き進むでしょうが、
成功禁止令がかかっている人は
為しとげる直前でも、自分が負うリスクのほうへ
意識の比重がいってしまい、
それを量りにかけて動揺し、
結局、ブレーキをかけてしまいます。
もし小沢一郎氏のブレーキが克服されていたならば、
菅など相手にもせず、どんどん驀進していくでしょうし、
自分の成功イメージに向って、
中途半端な妥協はせず
最後の最後まで、おのれの信念に基づいて
成し遂げていくでしょうから
まあー良く見ていましょう。たとえ
首相になってもまだ成功とは言えず、
むしろそこから先が見所です。
菅氏はもともと傍観者で、傍観者である時には力を
発揮しますが、傍観者は現実に喰いこんでいきませんから
何も実践的な方法をもっていないと思います。
批判や評論は得意なのですがねえ。
現実で身体を張って戦ってきていませんから
中身は空洞化した自信がない人間だと私は思いますが、
旨く立ち回ることばかり考えるのではないでしょうかねえー。
いずれも覚悟さえあれば
成し遂げていけるでしょう・・・?
さて
昨日お約束したこと
旨く書けるかなー・・でも
書いて見ましょう。
人間が生きると言うことは
各自のマザーデーターを頼りに
さまざまなる未知のことに出逢いながら、
常に脳がそのデーターを書き直しては編集するという
日々を生きています。
だから
当然、自分の脳の記述にないことは、理解できないし
体験していない、データーのないことには
対応できませんから、おそらく
人生は、
過ちと失敗の連続です。
つまりはそういうプロセスの途上のうえに
”今の自分”があり、
過去はすべて”今”の自分に必要な出来事であり、
過去はすべて”今の自分”を構成している要素です。
過去のすべてがまさに
自分そのもので、
逆に言えば過去の自分すべてを
今の自分が引き受けて生きている。
つまり
自分と言う人間の中身、内容そのものです。
そういう過去の自分を丸ごと生かしながら
次の一瞬を人間は生きているはずですから
自分を誠実に生きているなら
自然に学んだことは生かされ
失敗したことは、乗り超えられて行く筈なんです。
痛い経験は、必然的に超えていこうとするでしょ。
たいがいの人がそうやって誠実に生きてます。
実は自分がやらかす失敗や過ちこそ
自分の為した自分しかできない行為なのです。
自分を媒介にしてしか成立しない
大切な自分の失敗なのです。
あたりまえのことですが、しかし
多くのひとは
それを自分固有の失敗としっかり意識化せず
失敗一般のこととぼかしていくというか
すり替えていくので
その失敗はまさに自分が所有する失敗で
他人ではありえない・・とあまり自覚せず
価値をディスカウントしてしまいます。
しかし、失敗や過ちはその人間だけの所有するデーターだと
考えると
自分の失敗は自分にとっておおきな意味と価値があります。
それを
一般的な失敗・・・というくくりで、見たり、
安易に処理したりしないことです。
その中には宝物があります。
まぎれもなく、自分が形成されるために必要な
自分の脳のデーターであり大切な要素であるんです。
自分と言う”独特なわたし”はそうして生まれ
育てられています。
人間は最初に行為があり、その0・5秒後に
脳がその行為を説明します。
説明するというかジャジするというか
それは脳が私たちを”生かそうとする機関”だからだと
私は思っています。
自分はまず行為行動を反射的にし、
その後に確認をして、自分のデーターを
書き換えながらいきており常
次の一瞬は未知との遭遇です
予定調和ではありません。
私たちの表面意識は、現状維持を想定しながら
連続を維持しようとしますが、しかし
現実は次の瞬間になにが起きるかは
図り知れません。
想定外のことが起きてしまいます。
その起きた事を
そのひとが
どのように自分の脳でジャュジし書き込み
編集するかなど
他人にはわかるはずがないのです。
そして私たちの人格といわれる、おもなる自分の骨子も
常に変化していく。まさにその終わりまで、
”絶え間なく変化していく私”です。
この脳のメカニズムからいえば
霊とか守護霊とかはありえないでしょ、
それはどの瞬間の人格のことをいっているのでしょうか?
まあそこは深くは追求しませんが、少なくとも
答えは
『自分のなかにある』です。
つまりそのひとが生きている現実の中に
データーがあるのです。
脳が自分の反応(行為、行動)を
説明(意識化)しようとしているとき
時に常に自分を裁いているひと
否定的に自分を考える人は
そういう風にスイッチが入ってしまい
不安や動揺が心のスキマにはいってしまいます。そして
自分をデンと信じていないため
集中力が希薄になり
他人の言動に振り回されてしまいます。
外の情報に翻弄されてしまいます。
心身ともに非常に安定しているときや
集中が出来ているときの自分を思い浮かべて欲しいのですが
そういうときは
自分に迷いがなく
”全肯定”できているはずです。
たいがいの人は無意識のうちに
そういう”全肯定”状態で
日々を生きているはずなんですが、
なにかの拍子に
自分に対する疑心暗鬼が起きてきたときに
それがあっという間に崩れて、
影のように他者の言葉や行為が介入してきます。
そのとき
はっと思い出した欲しいのです。
いや
自分のなかには
自分だけが収集してきた貴重なデーターがあると。
そして出来るだけ常に
自分を全肯定して
生きる。
その自分独特な貴重な体験を
グダグタいじくらないで
自分に任せて、それはそれでよしとして
そのうえで
後はあのソクラテスのことばのように
「善く生きる」ことだと
思います。
懸命に「善く生きようとしている」
その自分を信頼する・・・ですね。
善く生きようと志し
あとは
自分の自然性に任せて
”騰々任運”でいいです。
なにかを成し遂げようとするときも
”今の自分”を”全力”で生かし、
自分がやりたいこと、
やらねばならないことを
孤立無援だろうが、問題山積だろうが
信念をもち、
無心にやる。・・・ということが
出来てきたとき
人間はほんとうに自律して
力を発揮してきます。
ツマらない取引や
駆け引きや
あわよくば無傷でとか
損をしないようにとか・・・なんて
同様の欲深い人間達とつまらないコゼリアイに
うつつを抜かしていても
結局時間を浪費して疲労して
得られるものは、
欲の裏にある自己不信と
埋められない不全感でしょう。
自分はこう生きるんだという覚悟と
その裏にある”全肯定の自分”
人間は常に忘れやすく
また揺れ動くものですから
自分が動揺しているなーと気がついたら
さっとスイッチそちらに切替えて
楽しく
オモロク
伸び伸びと
生きて欲しいと
思っています。
旨くつたえられたかなー・・・・?