ひとを愛するとは・・・そのⅠ |
ずーっと温めていることがあります。
それは
「ひとを愛する」ということは
どういうことなのかを
書きたいと思っているのですが、
読んでくださるひとの胸に
ストンとおちるように書くにはと
いろいろ考えが逡巡して
なかなか書くことができないで
います。。。。。
以前にも「愛情」というのは
自分の思い込みによる幻想だよ・・・と書きました。
自分がほしいと求めている愛情は、
あるいは
親子の愛情
夫婦の愛情
恋人同士の愛情などなどは
そこに願望や欠落を埋めようとするエゴや
コンプレックス、や支配欲、所有欲、また
依存する他人対する、拡大した幻想など
そういう自分の思い込みを
自分にも相手にも投影して
「愛」なるものと
錯覚していると
書きました。
厳しいねえ・・・!
今私が書こうとしてる
「ひとを愛する」ということは
「愛」というものに付着した
幻想や思いこみや願い、あこがれ
そういうものを
全部とっぱらってもなお
そのひとを愛することができるか・・・という
ことです。
昨日書いたブログでも
書いたのですが、
人間をみる
まなざしの例えとして
ゴッホがもし
目の前にいたとして
感情の起伏が激しく
思込で行動してしまう、
狂気にみちた
貧しい貧相な容貌のひとりの男を
愛せますか!という
事です。
世間から評価される以前の
ゴッホ、
天才画家とか
偉大なる画家とか
そういうものをとっぱらってもなお
ひとりの生々しく
生きている人間として
彼を
受け入れることができるか・・?
ゴーギャンにしても
皮肉屋で
虚無的で
物事を冷笑的にみる
男、
まあ
ゴッホに比べて
ゴーギャンのほうがずーっと
いい男ですが
まあ
付き合いづらい
いやな男だったかもしれませんねえ。
ゴッホだって
自分の思込を押し付けてくる
あつ苦しい男で
しかも分離不安をもっているから
ずかずかと他人の心に介入してきますし、
本人は善意ですから、
もーたちが悪いです。
これは私のかってな想像ですが、
分離不安の人は
自分が親密さを感じている人間が
自分から離れようとする時
強い不安に襲われます。
自分がおいてけぼりになるような
自己陥没の不安がきて
それは怒りに転化していくことがあり、
そのせいでゴッホはゴーギャンを
襲ったのではないか・・・と
思います。
まあ
私の独断ですので、
ちがうかもしれません。
そういうことも
ぜーんぶ含めて
彼らをひとりの
ちいさな、ちいさな人間として
見るとき、
私たちと同じように
煩悶し、苦しみながらも
懸命に生きていることが見てきます。
同様に
自分のすぐそばにいる人間
自分が愛したいと思っている人間が纏っている
さまざまなものを
全部とっぱらって
その人を見たとき、
そのちいさな
ありのままの
姿を
そのまま
愛せるだろうか!
まあ
私が知るかぎり
たいがいのひとは
相手が自分の思い込んだような人間ではない
というところから
落胆し
さまざまな
トラブルが起きているように
思いますヨ!
今日は
これくらいにして
おきます。
最近ホントに
体力、気力がおとり
書くためのエネルギーが
落ちてきましたから
おいおいに
また
書きます。