父の大皿・・・! |
骨董屋さんが昨日来てくれました。
まだ若い青年です。
父残した陶器の処分をお願いしたのです。
そちら方面に行くので
帰りに寄ります。という電話を受けた後、
いよいよ陶器を送り出すために
棚や押入れから出してリストをつくり
すぐにお渡しできるように
支度をしましたが、
いざとなるとなんだか淋しく
また父が好きで大切に集めた物ばかりですので
なんだか父に悪いような気がしてきて
少し気分が落ち込みました。
しかしせっかく彼と知り合い
またこれ以上わたし自身が歳をとると
どんどんその処理が
億劫になってきます。
いまでも世事のことが
そうとう億劫になってきているのに・・・。
また家族は私以外、だれもこの分野には
興味がなく
わたしが死んだあとは誰も
知識がない状態になります。
彼が来る前に
それらの写真でもとっておこうか・・と
ふと思いましたが、
やめました。
そういうべたべたな感じが
いやだなーと
思ったからです。
手放すときは
潔く
そして
後は
彼と陶器自身の運命に
任す!
でも私が大好きな大皿だけは
手元に置くことに
しました。
これがその写真です。
人間はひとりひとりが
自律した人生を生きており
父といえどもその生きた世界は
わたしとも
他者とも全く異なった世界であり、
厳しく言うと
他者とは個絶した、父だけの世界です。
この個絶しているという事を
理解するのはなかなか難しいのです。
しかし
そうなんですよ。
だから
父がいくら愛し、大切にしたものでも
父の死ととも
それは消滅してしまいます。
俗にいう
思いでという事に関しても
私は、多少は湿ったものはありますが、
父は父の人生で完結していると
思っていますから
父の死とともに
そこにはピリオドを打ちました。
そこに固執することもなく
依存することもなく
私は私の
自律した世界を築いていくという事です。
父も母もそれぞれが
ひとりの人間として
私の目にはその全体像が見えてきます。
彼は彼らしかありえない
その人生を生き切ったと
思います。
同様に私は私の人生
私の世界を生ききって
死んだらそこでおしまい。
できるだけ残った者たちの手を
煩わさないように処分して旅立とうと
今から
少しずつ準備していますが
それでも残ったら
潔く一切を処分して、
水鳥後を濁さず!
行く日々の中で
私のことは忘れてほしいと
願っています。
まあ
わたし自身は臨終のときに
自分が自分に
大喝采の拍手を
おくれるように
頑張ります。
明日からまた、京都に行きますので
ブログを7日までお休みします。
京都、暑いでしょうねー!
でもワクワクしてます。
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