シリーズ「残念なひとびと」・・・中島らもさんの映像から!№2 |
らもさんなりに懸命に生きられたのだと
思いますし
また生前はとても魅力的な方だったのだと
お思います。
もう鬼籍に入られた”らもさんに
お願いをして
らもさんを反面教師にさせていただきながら
次の時代を生きる若者たちへの
遺言、メッセージとして
おそれながら
厳しく検証させていただきますので
鬼籍の中島らも様
よろしくお願いいたします。
合掌。
中島らもさんのことは
「新聞の悩み相談」の欄で
ときどきちらっと
みたり、
たしか中央線沿線のガイドブックで
ちょっとお姿を
見たりした・・・くらいの
認識しかありませんでしたが、
この映像を見終わったとき
「あんた、シャドウばかり追究して
光の方にはぜんせん追求足らず・・の
片手落ちじゃあーないの・・・。」という言葉が
私の中に沸いてきました。
まあ―こういうひとは
世の中のシャドウで生きてる人間達には
大喝采でもてはやされてます。
なぜなら
この世の中でお行儀よく生きていて
息苦しい人間の
”代弁”をして
かなりきわどい毒を
吐いてくれるからです。
そして反社会、反権力として
世の中の偽善や偽悪を
もてあそぶ言葉を
吐いてくれるからです。
しかし聞く方も
読む方も
一回きりのそれで
読めば
聴けば
自分の糞づまりの通しがよくなり
脱糞の快感で
あゝ面白かった・・で終わりですが
書く方の人間は
どんどんその闇とシャドウの中に
突っ込んで行き
取り込まれていきます。
シャドウとは
社会へ向けて
そこで生きるために
人間が表面につけた仮面の
反対側にできる人格のことで
表面の仮面の量と
同じ量の
自分が抑圧した意識、
社会の表面に出すことが出来なかった
自分の本心のことです。
アンデルセンの作品に
「影」という話がありますが
影がその本人から離れて
次第に影が力を持つようになり
最後は影が主人になり
主人は死んでしまいます。
シャドウ(影)は
社会に迎合して生る表面意識の
影から社会を見て
その嘘や偽善を見破るのですが
しかしそれを表面切って
反抗したり
発言することも
表現することもできないため
屈折した意識、
批判的、否定的
反社会的な感情に
加工された言葉となって
自分の頭の中で
堆積していきます。
そして
”らも”さんの言うとおり
”普通の人間”は
社会の規範や
集団の規律の中で
それを守りながら生きているため
だれもが
そういうシャドウ世界を持って
生きていますが、
それは
お行儀良い善人の仮面の心の
奥深くに
仕舞い込まれ
蓋をされていますから
それが堆積してしまうと
息苦しい中
”らも”さんの反社会的言葉や
毒にくすぐられると
すーっとするのですね。
わたしもブラックジョークが大好きですし
ブラマヨの吉田や
有吉の殺意が大好きです。
そして
きれいごとばかり言う人間は嫌いですし
今の社会はお行儀が良すぎた日本人の
為した結果だとも
思います。
しかし
影のせかい
シャドウを操るには
自分の中の”軸”が
しっかりしていないと
シャドウに乗っ取られます。
つまり
シャドウを掘るのと同じくらい
光の世界をも
掘っていないと
ダメなんですね。
そういうバランスを
熟知していない人は
影に乗っ取られて
破滅していきます。
シャドウの世界は
物陰から
自分の正体を隠して
覗き見ている世界です。
光の世界は
反対に
舞台の真ん中に自分がたち
自分の輪郭をはっきり示しながら
真正面から
社会や物事に
向きあって
行く世界です。
その二つ世界の中心に
自分という機軸をたてていないと
どちらかの世界に吸い込まれ
吸収されて
ついには自分が無くなって
しまうのですね。
影と光の両方で
バランスを取りながら
かろうじて
生き延びてゆく!
しかし
”らも”さんは
シャドウばかりを
掘っちゃった。
そして普通に生きている人の
価値が分からず
ザマーミロ・・と
言っている、
でもね本心は違うと
思いますよ。
彼は本当は
心優しい人間だと
思います。
シャドウ・・・イコール
言いたいことを言えなかった
ほんとうはノーと
拒否したかった自分。
我慢ばかりしてしまった自分。
相手ばかり優先し
自分を押し殺してしまった自分。
自分の行動を検閲し
自分を見張り
自分にブレーキばかりかけた
自分。
親に抵抗できず
親の価値感や感情の中に
呑み込まれ
閉じ込められて
自分のほんとうにやりたいことを
押し殺してしまった自分。
他者の顔色に怯え
不安にさらされてばかり
いる自分。
などなどで、
らもさんは
それらのシャドウを光の中で
生かすことが出来なくて
シャドウを閉じ込めた穴を
ほることで
生きようとしたのだと
思います。
それを
才能と勘違いしたのかも
しれません。
シャドウを救いだし
光の中に出してあげると
今度はそれが
自分の中の人間情報として
生きだし
自分の直感の基として
有効に働きだします。
しかしシャドウを
穴の中で
押しつぶしているかぎり
生きることができなかった自分の
生きることを
許されなかった自分の
悲しみや怨念が
山積みになっていて
それは次第に
自分が受け入れられないことへの
憎しみになってゆくと同時に
自分が実現できない
無力感と絶望感となって
その人を無意識のところから
操り始めます。
聞き入れられないから
屈折した感情の
ねたみ
嫉み
恨み
憎しみ
悪意の
攻撃的感情へと
醗酵していき
そのひとの意識を
乗っ取ろうとするのですね。
”らも”さんが
手塚治虫がつまらなくて
白土三平の方がいいというのは
”らも”さんの中の憎しみや怨念が
白土三平の漫画の残酷性へと
投影されて
自分の糞づまりの代理行為を
してくれるからです。
またビートルズではなく
ローリングストーンというのは
ビートルズのジョンレノンみたいに
生い立ちからして
シャドウに呑みこまれてしまったジョンが
なんとか光の方へターンして
生き延びようとしたように
ではなく、
いつまでもクソガキのように
反抗していたい・・・という
甘えがあるように
思います。
大人になりたくない・・自分です。
なぜなら
世を恨み
世に絶望し
人間を憎み
自分に絶望するのは
そこに過度の緊張と快感があり
倒錯した
エクスタシーが
あるからです。
蜜の味が
あるからです。
だから
お酒を飲んでそこに浸るのは
気持ちが
いいんです。
なぜお酒やドラッグをのむと
気持ちがいいかというと
実は自分の意識の奥の奥の
そこのそこのほうの
無意識に近いところには
チャ―ンと光のほうを
みてごらん!・・・・という
自分のまっとうな意識、
こころが
あるからです。
実はかれはその
まっとうな心に
脅かされているのですよ…ほんとはね。
しかし
彼は
それに気づきたくない!
無視したくてしょうがない気持ちが
尽きあがってくる。
なぜ気づきたくないのか・・・。
それに気づいたら
自分が大人にならなけりゃー
いけないないからですよ。
大人になったら
たくさんの自分の玩具を失う!
分別を持たなきゃーならないし
自分の奔放な”言動”に
責任とコントロールを持たなければ
ならないからです。
だから
その怯えから逃げられる
お酒を飲んで
気持ちがよくなる。
そして大人になって
まっとうになるより
アル中になって
人生の破綻者に
”思われてたほうが”
そういう
別枠の
市民権を持っていたほうが
楽しい…し
憎むとほんとは
すっとするし
手慰みのことばや
倒錯した
エクスタシーを
失いたくない!
そこには特別のレッテルを
張られた
特別・・・として認知された
自分がいる。
ただの普通のひとじゃーないんだねえ・・。
人間は
みんなシャドウの世界を
持っています。
しかし
中でも
自分のシャドウばかり掘る人
追究するひとは
じつは
苦しくてたまらない
はずなんです。
自分の中の自分が
自分の意に添わないことばかり
やってしまう
自分より他人を優先し
自分がいつも自分に
無視されているけど
そういう自分を
ほんとうの自分が
止められない
そういう苦しさや
もがきがたくさんあります。
それはシャドウに
自分がのっられているからです。
では
シャドウの正体とは
何でしょうか
シャドウの正体は
自分のなかにある
他人の文脈で生きている自分に
対する
生命危機の
サインです。
一方
他人の文脈とは
自分が思い込まされた情報
幼児や
成長期に
自分の無防備な頭の中に
書きこまれた
親をはじめとする身内の人間の
或いは学校や周辺にいた人間の
価値観や思い込み
またその社会や地域社会の
古い風習や習慣や
そこで思い込まれて
共同化されている
規範や
規律など
自我を縛ってしまう意識
そして無防備な自分を
脅した人間の感情に対する
怖れや怯えの意識
無防備な自分が
付き従うしかなかった人間に対しての
隷従しかないと思い込んだ
自分の思い込みと
選んだ自己防衛方法としての
我慢。
などなどの
自分の行動のもとになる
基礎データーです。
ほとんどの人が自分の意識とだと
思い込んでいるデータです。
そして
自分本来の欲求や
感性で
その自分自身のほうが
ほんとうは
自分にとっての大切な情報が
かかれているのに
残念ながらそれは
シャドウイコール影の領域(壺)の中に
押し込められて
ないもののように
扱われてしまており
それが自分に真実を教えたくて
意識の表面に出たくて
くるしいよー
苦しいよーと
サインを出しているのです。
そういう自分に
書き込まれた
或いは
書き込んだ他人の文脈は
本来の自分の生命力を
脅かし続けている
自分にとってはの
”異物”だから
ほんとうはそれに従うのは
無理があるんです。
ほんとうは
うけとりなたくなかった
ものなのですね。
それを
自分のものだと
勘違いをし
それが自分が生き延びる手立てだと
思い込んでしまった自分に
対して
シャドウはいつも
オマエの本心はほんとうは
ここにあるだろー!
だから
自分を閉じ込めないでくれ
自分を無視しないでくれ
自分を光の中に
だしてくれ・・・と
ことあるごとに
叫び続けているのですが
怖れや不安や
自己防衛のほうが
強い人は
それを
見ないふりや
気づかないふりを
して
見捨てて
しまう。
そういうやわらかい感性が
若い日々には
あったのにもかかわらず
無視し続けているうちに
とうとう
ドンカーンになって
もう
気づけなくなってしまっているひとも
居ます。
そしてどんどん行きづまり
世の中や
人間に対する
嫌悪と否定
自己実現が叶わないという
憎しみと無力感
と
絶望だけが
募る!
よくよく考えてみてください。
おかしいでしょ、
だって
初めから
自分でない
異物ばかりを
大切にし
自分の本意は
捨てて
お粗末に扱ってるんだもの・・ねえー!
そしてそういう人は
自分の異物を維持することばかりに
エネルギーをつかう。
自分の意志より他人の意志を
優先し
他人の顔色ばかりを伺い
自分の欲求は押さえつけて
あげくのはてには
自分の意志に添っているかではなくて
他人の意志にそむいていないかと
そういう気遣いや
懸念ばかりが
アタマの中を巡ったり
もうーストレスばかりと
向き合って
自分のエネルギーを
使い果たして
へとへとに
なっちゃうんだもの・・・。
そして
もっと悲しいことは
そういう他者の文脈で生きてるだけでも
そうとうストレスで
大変なのに
自分を否定し
自分の本心に市民権を
与えていないから
つまり自分に
OKをだしていないから
すぐ自罰したり自責したり
してばかりいる。
そういう委縮して
恐々と生きているのに
自分はこんなに他者の事を思い
優先して生きてるのに
それが認められなかったり
他者の何気ないことばで
自分が置き去りにされたり
軽く扱われると
すぐ
傷ついてしまう。
そして傷ついた自分の本心を
また
内向させていくから
まー
どんどん悪循環して
シャドウの甕には
怨念や憎しみ
人間嫌悪
厭世感が
堆積していく。
そういう葛藤ばかりで
人生を
使いつくすのかなあ・・・・???
もしこのブログを読んでいる中に
そういう人がいたら
私は
言いたい!
そういう他者の文脈なんか
捨てちまって
自分の本心の
本来の文脈で生きてごらんなさいよ
たのしいよー!
そういう
怨念の桶というか
掃き溜めなんかを
後生大事に
抱えていないで
光の中を
生きてごらんなさいよ。
その光の中とは
しっかりと
自分の文脈に基づいた
自分のビジョンがある
自分の正直な
世界です。
自分を疑わず信頼して
自分の中の感性をちゃーんと
受け止めて
味わいながら
自分の本船に乗り込んで
海を
渡る。
自分をアンテナに
羅針盤にして
自分の脳の地図を海路図に
広い世の中に
漕ぎ出すことです。
シャドウばかり掘っていると
知ったつもりで
世の中や
人間を
あれこれと
小さく矮小に見てしまうけど
世の中は
広くて
オモロイことが
もう
星の数ほど
ある。
一生じゃあとても
とても味わいきれないほどで
そんなに
自分をつついてばかりしていると
時間が
もったい
ない!
光の中に
自分を出すには
勇気や
覚悟がいりますねー。
でも
出しましょう!
もう
あなたの文脈では
生きません!
他人の文脈では
生きません。
もう私は
自分の思いの方を
私のやりたいこと
言いたいこと
自分の正直な気持ちにそって
行きます(生きます。)
そして
嫌なことに対しては
はっきり
”NO ”と
言いましょう。
嫌いな奴とは
付き合わない!
随分長くなりましたが
最後に私はどうしても
書きたいことが
あります。
それは
私が自分の棺桶の中に
入れてほしいと思っている
夏目漱石の本
「硝子戸の中」に
描かれている漱石自身の姿です。
最晩年の漱石です。
風邪をひき
療養中の漱石のところに
ある見知らぬ女性が訪ねてきます。
それは漱石の家の近くの女性で
漱石は面会日を指定して
その女性を家に招き
話を聞きます。
その女性の話は
聴くほどに息苦しくなるくらい
切羽詰まり
彼女は
生きるか死ぬかの
一寸も身動きできないような
際にある話でした。
それを聴いている漱石自身も
ふかく逡巡しながら
軽々しく言葉を発せられないなか
夜が更けてきて
漱石は、もう11時だから
お帰りなさい・・といい
夜も更けたから
送っていきましょうと
彼女を
送ってゆきます。
曲がり角のところで
女性は会釈して
「先生に送ってもらっては
勿体のうございます」と言います
「勿体ない訳がありません。
みんな同じ人間です。」と
漱石が答えます。
次の曲がり角でまた女性は
「先生に送っていただくのは
光栄です。」
と言いました。
その時漱石は
「ほんとうに光栄と思いますか。」と
尋ねかえします。
すると女性は
「思います」と
はっきり言いました。
それを聞いて漱石は
「そんなら死なずに生きてらっしゃい」と
言い、
それからもう少し送って
家にかえります。
漱石は常に自問自答を繰り返し
自分の生きていることを
問いかけた人間です。
時に神経衰弱(ノイローゼ)にかかったと
言われていますが
生い立ちそのものも
いわゆる”のぞまれた子供”ではなく
里子にだされ
たらい回しにされて育ちます。
しかし彼のこの「硝子戸の中」という作品には
彼が自分の頭の中の文脈と格闘し
当時脳科学などなかったにも
かかわらず、
それが自分の父母、祖父母その後ろに営々と生きた
人間達の文脈のいちばん後部に生きていて
自分がそこから解脱出来ずに
葛藤している・・・と
覚醒しています。
半ば意識の出来てくる
メカニズムを
わかっています。
その覚醒は
漱石が作家として
常に自分の内面に
光を当て
その闇も光も
両方を
見つめ究める中から
人間の不条理を引きうけ
何とかして超えようと
もがいたらだと
思います。
その時
自分をごまかそう思えば
いくらでも
ごまかせたかもしれませんね。
しかし漱石は
自分の心の奥の奥の底のそこの
無意識の傍に或る
チャ―ンと光のほうを
みてごらん!・・・・という
自分のまっとうな意識、
こころを
抹殺しませんでした。
その臨界にかれは
自分の機軸を定め
そこから放射状に光を
闇にも、
勿論影にも
日向にも
当てていきました。
だからこそ
彼は
人間の深い悲しみや
絶望や
身動きならないところで
懸命に息を吸おうとしている人間に
優しいかったのです。
面識もなく訪ねてきた女性の話を聞いて
なにも言葉を
発せない自分、
その重さに
言葉をうかつに吐いていけないと・・・。
それほど苦しいなら
その女性が死をのぞむなら
その方が・・・・・・。
と
もしかしたら・・・と
逡巡したかも
しれませんね。
だからこそ
為すすべがないまま
彼女を送っていきます。
ただ無言で
送っていきます。
そして
やっと
別れ際に
「死なずにいきてらっしゃい」と
言いました。
人間は幼児期に獲得した神経系統で
ずーっと生きていきます。
幼児期に過度のストレスを
受けた人間は
大人になってもちょっとの事で
ストレス物質が過剰に反応して
出てしまいますから
漱石だって
アタマで理解していても
死ぬ間際まで
幼児期の絶望感が身体を
巡ってしまい
死にたくなる衝動に
駆られてしまうことが
あったでしょう。
彼はそういう人間の
苦悩というか
懊悩を熟知していた思います。
絶望を熟知していたとも
言えるでしょう。
だから
安直に言葉を
吐かない。
しかし
そういう人間が「苦しむのを
ただ見ているしかないけれど
そっと
寄り添っている漱石が
います。
大きいでしょ!
らもさんの映像をみながら
もし
らもさんが
わたしのところへ来たならば
私は彼を
ぶん殴るかもしれません。
お前さん
闇ばかり掘ってないで
光も掘れよ!
物書きのはしくれというなら
片手落ちだろうー
甘えんじゃないよ!・・・と。
もう一度
シャドウばかりほっている人が
いたら
言いますよ!
生まれなおして
光を
ほってごらんなさいよ!
もー
生きることが
たのしくなるから!
漱石にみたいになれとは
言わないけど
光も闇もすべてを
使いこなして
立体的に
生きようよ!
ねっ。
ああー
長かった!
私も尊敬する夏目漱石をここに見出して、嬉しいです!
むせっぽいような苦しい話を聞かされたあと、久しぶりで人間らしいいい心持を味わった...というその後の叙述も好きなくだりで、リアリティを感じるのですが、此の時の「人間らしいいい心持」というのが、実は意識と無意識の統合が行なわれたことからくる自我の安定感、みたいなことなんでしょうか?
漱石の書簡集も、漱石の命の力の「光の側面」が良く出ているように感じます。
最近、このブログのおかげで、なんだか、「風の谷のナウシカ」のオームじゃないけど、自分の中の「攻撃色が消えた」みたいなイメージが少し見えてきました・・・
依存というのは、自分の中のインナーチャイルドの悲鳴を、自分の意識で受け止めることから逃げて、他者に問題解決を委託することだと、わかってきました。それではうまくいきませんよ、自分を徹底的に信頼しなさいよ、というメッセージを貰っている気がします。
ブログをお書きになるのは、沢山のエネルギーのいることでしょうね・・・。
いつも力づけられます!