シリーズ”風のエッセイ” 愛し合ってるカイ! |
思えば昨年1年は
気の小さい私の中の肝が
やっと座り始めた1年で
特に秋ごろからは、
理解されようとされまいと
誤解されようが
そんなことは些末なことで
外界のことには目もくれず
歯に衣を着せずに
どんどん核心的な言葉をブログに
放りこんで書こうと
腹が据わり始めました。
今日はその中でも最も大切なことを
書き残しておこうと
思います。
それはどんな人間も
信頼しうるにたりること。
どんな人間にも、
小さなちいさな愛の世界が
宿っている事。
という事です。
私はこの”愛”という言葉を
軽々しく使いたくないです。
軽薄に、軽率に、使い流していくような
そんな言葉としては
使いたくない。
ほんとうは
重すぎて、
ちょっと手を触れるだけでも
その重さと厳しさに
痙攣が来るような
言葉だと思っています。
しかし今日は使わさせてもらいます。
カウンセリングをしていると
もがき苦しむ人のなかに
はっきり見えるのは
その人の奥深くに輝いている
”愛”です。
それは長い年月の間に
自我の苦悩によってできた
分厚い殻の奥の奥のほうに
ひっそりとして在ります。
昨日から頭の中を
ずーっと一つの絵が
頭の中を占めています。
それは自我が苦しむことによって
ひとしずくずつ
蝋が垂れるようにしてできた
自分の被膜といいますか
自我が造ってしまった
分厚い殻です。
初々しくうまれてきた
やわらかくて透明な自分の廻りに
できてしまった砦の
自己防衛の殻です。
この自己防衛の中には
防衛の反動で出来る
欲や執着もはいります。
その殻というか
厚いベールで人間は
自分を見失い
窒息しそうになります。
それは自分を不安におとし
時に
争いの根となり
大きな攻撃へと転化されたり
また逆に
とんでもない自己否定と
その反動の他者否定へ
更に醜い支配欲や
征服欲と
なっていきます。
つまり
自分でも御しきれない
さまざまな
じぶん現象になってしまいます。
もともと人間も”動物”ですから、
脳の中には
弱肉強食の中を生き抜き
生命を保全するために
自分以外をすべて
警戒し否定したくなるような
情動が入っていると
言われています。
しかし一方で
長い人間の歴史の中で
共存していくための
共生のプログラムも獲得しているため
自分の中にはこの相反する
矛盾した二つの情動が同居していると
いう事です。
そういう自己矛盾をもって
私たちは生まれてくるわけで
だからこそ
釈迦が言うように
生きることは”苦”なのです。
しかし
生まれたときの私たちは
まったく無防備です。
そこには親やそれに類するものに
自分をゆだねて生きるすべしか
ありません。
その私たちがゼロ地帯を生きている
赤ん坊の私も
幼児の私も
小児の私も
まさか親を否定して生きてやろうなんて
これっぽっちも
思っていません。
ひたすら
ゆだねている人間を
信頼して生きています。
そして
幼児も小児も
ひたすら親の役にたちたい
親が笑顔であってほしいと
純粋に思っています。
カウンセリングで出てくる
その人の子供は
誰もみんな
清らかで
純粋に親を受け入れようとした
子どもです。
誰の子も
どの子も
純粋で清らかで
尊いこころがそこに
あります。
なぜなら”命”はひたすら
生きようとし
ひたすら成長しようとし
ひたすら前に向かって
進むからです。
そこに命の本質があります。
インナーチャイルドは
傷を受けた子供ですが
しかしなぜ傷つくかというと
それは無防備で
純粋で清らかだからです。
始めから防衛満々の子どもなんて
いるはずがない・・・。
つまり私たちの始まりは
”愛”と”信頼”なのです。
しかしやがて子どもは傷つくたびに
命を守り
痛みに耐えるために
自分の廻りに一滴ずつ
被膜を作っていきます。
更に深く傷つくにつれ
被膜はどんどん分厚くなり
澱みや汚れが付着して行きます。
多くの人々が苦しむのは
そういう風にして
できてしまった、
自分の自我の汚れが付着してしまった、
自分にです。
人生の前半は
ひたすら自分の命を守るために
人間は防衛の被膜を
作っていきます。
しかし
人生に後半になると
つまり青年になり
社会へと出立つしたとき
今度はその被膜が
自分の前進を阻む
障害となってしまいます。
しかしここに
大きな神の手ともいうべき
救いがあるのですよ。
それは
自分以外の他者との
出遭いです。
他者との出会いはいつも
自分の被膜が破られる契機を
孕んでいます。
時に被膜どうしの衝突や
小競り合いが生じ
その時はいつも
自分の自我の汚れが
問われているときなのです。
でも
長い年月をかけてできてしまったその
被膜の砦が
つまり
その蝋が一気に解けることは
有りえません。
何度も何度も他者や社会と
争い
頭をぶつけながら今度は
ひとしずく、ひとしずく剥がれていく。
それが後半の人生の旅です。
出来るのに20年30年かかった
被膜が溶けるのも
20年30年かかるでしょう。
逆に言うと
他者とも20年30年と
付き合うにつれ
だんだん自分も相手も
蝋が解けてゆくのですね。
特に夫婦という出遭いは
20年30年と
かかわりを持つ中で
やっとその被膜が解けて
お互いが分かり合えるときが来る。
カソリックで結婚は
神の秘跡といい
神が仕組んだ出会いだから
離婚してはいけないと言います。
離婚を禁止する・・と云うのは
どうかと思いますが、
しかし
人間が出遭うという事は
単なる偶然じゃありません。
そこには深い意味と示唆があります。
つまり自分の被膜を破る契機があると
いう事です。
まして夫婦として出遭うには
お互いの魂のレベルでの
ふかい意味があり
だからこそ試練が降りかかってくるのです。
結婚だけでなく
ありとあらゆる出遭いには
意味と示唆があり
そこにおきる出来事(現象)はすべて
貴方の被膜はどうなの?と
問われています。
相手の被膜を溶かすには
その前に
自分の被膜を溶かさなければ
なりません。
相手の被膜が汚れて見えるのは
同じ分量の汚れが
じぶんの中に
あるからです。
相手の闇や
人間の闇
社会の闇が見えるのは
自分の中にも
同様の闇があるからです。
それを相手ばかりに見てしまうのは
自分の自我が
自分のエゴで
目隠しするからです。
人間は自分の中のエゴや
汚れや
闇をしっかり見つめ
受け入れた時にしか
成長しません。
人によって残念なことに
死ぬまで被膜の中に居続ける人も
います。
気の毒ですが・・。
闇の深さをしっかり認識したとき
はじめて自分の奥行きと他者の
奥行きの中にある
深い悲しみ
深い絶望
そして
ふかい痛みがわかります。
つまり人間を理解するのです。
負の世界の深さを
理解し受け止めた時から
はじめて
人間はその負の闇の奥にある
自分が
生まれる時に抱いてきた自分の
あの
”無垢の愛”の世界が
見えてきます。
小説や映画ドラマを見ている自分が
感動するのは
その中にある
悪や絶望や人間のヘドロが
どうように
自分の中にあるからこそ
そこに在る人間の不条理を理解し
そして更に
自分の被膜の奥にある
純粋で清らかで尊い自分が
揺すぶられるからです。
今回の災害で多くの人々が
自分の中にある
尊いものを
思い出したのは
そこに”命”という
純粋で尊いものが
奪われたことへの
深い悲しみと不条理への共感が
あったからです。
法然や親鸞が説いた
悪人正機説は
その根底に
どんな人間も
例え極悪人でも
そのころろの奥の奥には
ささやかに
小さいけれども
純粋で無垢の魂が宿っていることに
覚醒したからです。
私たち人間は疑いや警戒ばかりに
心を奪われえている限り
そこには不安や絶望しか
有りえません。
しかし
自分の中にある
被膜の中で
打ち震えているかもしれない
自分の原型、
自分の原点である
愛と信頼を
ふたたび見つけだし
取り戻すことができたなら
そこから今度は
自分がしあわせになるための道が
開かれていきます。
幸せとは
口を開けていれば天から降ってくるものでは
ありませんよ。
自分の被膜の蝋をとかした後にくる
真水のように清らかで
爽やかな
生きる充実
生きた達成感です。
自分の中の愛と信頼を
取りもどし
自分を
圧倒的に信頼して生きること。
同様に他者への警戒と防衛を
解くこと。
そして
被膜の中にある
自我の汚れ、人間の闇を
しっかり見つめることにより
人間を
深く深く
理解することです。
自分と言う人間が生まれたことに
意味があるのか
価値があるのか
なんてことは
死ぬまでわかりません。
しかし
死がまじかに迫った時こそ
自分の人生の全貌が見えてくるでしょう。
それまでは
とにかく生きることで
生きてみなけりゃー
わかるわけがないでしょ。
自分の被膜が溶けて
ほんとうに純粋に人間に出遭えること。
他者とは
もうひとりの
自分です。
長くなりました。
読んでくださった皆さんへ
今日は私からの
ギフトです。
愛する
忌野清志郎さんが言ってたように
愛し合っているかい!
愛してるよーッ!
『伝心柱マガジン』
今日もすてきなギフトいただきました~~
純粋な自分にいつか出会いたいです。
私も、時々ここに戻って読み返したいですね。