シリーズ・自分の自然性で生きる・清水宏監督の映画! |
もしかして
「清水宏」という映画監督を
ご存知ですか?
実は私はまったく知りませんでした。
映画「流・ながれ」の村上浩康監督から
教えてもらいました。
清水監督は小津安二郎監督などと
同じ時代に活躍された監督で
村上監督から
その貴重な映画のCDコレクションから
4本をお貸し頂き作品を見ました。
その履歴をみると
私の
子供時代ににたしか
「しいのみ学園」と「次郎物語」は
見たことを思い出しましが
それが清水監督の作品だとは
ちっとも知りませんでしたし
まあ
ほとんど
はじめて知ったにひとしい
映画監督です。
お借りしたのは
とても大事なCDですから、
見た後すぐにお返ししたのですが、
不思議なことにかなり日がたった今も
鮮明にそられの作品が
頭に残っているのです。
なぜだろう・・?
私自身の興味をそそったのは
映画の中は
清水宏監督の
とても自然なインナーチャイルドの世界があったことです。
それは普通、娯楽としての映画に見られる
さんざん手あかが付いた
世俗的な既成観念から覗いた
人間観ではなく
清水監督自身の
インナーチャイルドの素直な感性や
純粋さを通して人間を見ている目で、
カメラを通して
監督が私たちに見せようとする世界は
監督自身の心理の軌跡をそのまま
カメラワークにしてるように
見えました。
だから
多分清水監督は、自分の心の中の自然性にそって
映画の内容を成立させていったのではないかと
思います。
まあ、映画の主ストーリは
やはり、それなりに筋立てがあり
それはそれとして面白いのですが
私の眼には
筋立ての整合性を超えたもののほうに
眼が行っていまします。
まあ、ひらたく言うと
ストーリの面白さとか
ストーリーのなかに
何か感じさせるものがある…というより
それよりも
映画全体を貫いている目に見えない何かがあり、
その目に見えないものの描写のモチーフの一つとして、
ストーリーや
人間達がさらりとそのままに
点景のように置かれていると
おもいました。
どう説明したらいいのかなあ~,
うまく言えないけれど
俳優たちも
熱い心理描写とか
監督の思い入れの激しい
先入観の入った人間として
迫真の演技をするのではなく
ストーリーの流れのなかに
そっと
そこおかれた
さりげない個人として
”それでいいいよ!”という風に
人間が描かれているのです。
それはね、
カウンセリングの箱庭療法に
よく似ています。
箱庭療法というのは
砂の入った箱庭で
山をつくり
河をつくり
木を置き
人間を配置しながら
自分の全体を創ってゆく。
つまり
箱の中に
自分を投影した山や川や道や橋などを創り
その中に自分を投影した人形(人間)を
置きながら
自分の全体性を取り戻してゆく。
もしかしたら
清水監督の
映像の撮り方と造り方と
箱庭療法は
よく似ているかもしれない
気がします。
だから
おそらく映画を見ている観客も
無意識にそこへコミットしながら
知らず知らずのうちに
自分の全体性を取り戻してくる・・・のでは
ないでしょうかねえ!
そのなかでの人間といえば
私が見た作品のうちの2本は
笠智衆さんが主役と準主役で
それぞれの個人の描かれ方が
あの笠智衆さんの
飄々さに通じるものといえば
おわかりいただけれるかなあ・・・!!!
つまり箱庭のように
作品全体を包み込むような
背景としての自然や温泉場や村の映像があり
そのなかの
点景としての人間が
描かれていくのですね。
つまり
その自然や温泉場は
単なる舞台や背景ではなく
それは清水監督の映画作品の
分母としてあるようにも
思います。
分母=全体性であり
全体性というのは
先に自然という
大懐があって
その懐の中で
人間の生きる舞台がある。
そしてもうひとつ
清水監督の大きな個性は
映画の中を流れる時間の推移で
物語のなかで設定されている時間の流れのほかに
もうひとつの目に見えない時間が
流れている。
つまり
筋書きや演出の必然性によって
設定、区切られ、枠ずけられた時間ではなく、
映画そのものが
おおきな時間の潮流の中の一点として
位置づけられていると
思うのです。
私は映画のことなど
まったくの門外漢ですから
ナ―ンも知りませんが
おそらく現場で
ストーリーの展開に添う時間の流れを
つくりながらも
同時進行的に
カメラを廻しながら、
映画を作りながらの清水監督のなかにある
抽象化し時間の流れが
そのまま
映画の時間の中でも流れているように
思います。
だから映画と見終わった後も
観客はその流れのなかにおり、
映画はエンドになったにもかかわらず
その余韻のなかにいる。
資料を読むと
清水監督は最初からきっちりと
枠を設定せず
撮りながら、
作品を完成させていったようですから
見ているほうも
映画という限られた空間と時間という
作り手の時間のなかに
”閉じ込められず”
見ていられる。
つまり時間も空間も
その中で生きる人間も、
おおきな河の流れ、
とても自然の流れのなかに
在り
そこには人間も、人間以外も
それぞれの自然な全体性が
どっか・・とあり
その自然の流れのなかで
生きて御覧よ・・・という
そういう世界観の映画でした。
でもねえー
これはとても大切な事のように
思います。
それは
私たち現代人は
いじくられすぎている・・・と
私は思うからです。
私たちは
もう
切り刻まれすぎているかもしれません。
今の世の中はもう
神経症的な症状そのものだとも
思うからです。
それは現代人が
表にあらわれる
自分の意識の部分だけで
生きようとすることに
原因があるとおもいますよ!
※この意識の部分だけで生きるということは
どういうことなのかは
後日詳しく書きたいと思います。
私たちは
自分の全体性を失いつつあるのかも知れない。
今の私たちに必要なのは
そのままでいいよ!と
肯定され
まるごとの自分そのもの、
自分の全体性を
取り戻すことかも
しれませんね。
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