人を愛するとは、男の幻想をいきるな、パートⅡ |
海峡を渡るゴンドウ鯨の親子と
それを襲うシャチの戦いをやっていて
鯨の母親が必至で子供を守り40分の死闘の後に
シャチの軍団は、あきらめて
去っていった。
それを見ていて思ったのは
”命”が”命”を守っているのだなあ・・・と
いうことで
ただひたすら親が子を守る
そこには、ただただ
無条件の”命”の出会いがあるのみです。
それに比べ
人間はいつごろから
条件をつけるようになったのか・・・と
思います。
人間の親も
子どもが生まれてきたときは
無条件に
受けいれただろう
もう少し鼻が高かったら
足が長かったら
眼がぱっちりしていたら、
頭が良かったら・・・云々」
と・・・・。
いつの間にかから
人間の
つまらない欲とか俗文化が
”愛すること”に
命を条件づけるようになったのか・・・と
私は嘆きます。
鯨より劣る!
誰もが
生まれたときの自分
そのまんまでいいんです。
そのまんまが美しいのです。
まさか生まれたての
赤ん坊に対しては
整形しろとか・・言わないで
そのままを
愛するでしょ。
そういう純粋な愛こそが
愛ですからね。
今日は吉祥に行くことがあり
車中で昨日ご紹介した
ジャクリーヌデュプレと
アルゲリッチを聞いた。
デユプレは骨太で知的で
しかも時に
女性らしいガラスのように繊細な表現を
する。
アルゲリッチは、ちょっと癇癪もちだが
めちゃめちゃに繊細で激しい!
ふたりともとても
傷つきやすかったかも
しれませんね。
もしかしたら
アルゲリッチはヒステリー持ちかもしれない・・・苦笑!
が
しかし
そこには
そうだからこそ
確実に”女”がいる。
それは男の都合には
合わないかもしれないが
”女”そのものです。
今から25年前に私は
男の幻想を生きようとして
狂気へと追い込まれた女性、
高村智恵子のことを
書きました。
※『原色の女』 彩流社
まあ智恵子さんは
もともと最初から
統合失調的傾向があった人ですが
それがさらに加速されたのは
高村光太郎との結婚だったように
思います。
つまり光太郎から
美化され”理想の女”の
仮面化した智恵子の方が
ほんとうは素朴な田舎出の
もう一人の智恵子の方を
蔽いつくしてしまいました。
光太郎向けの智恵子は
自己を観念化してしまい
存在が希薄になり
宙に浮く浮くように生きる(幽霊のようにです。)
しかし
その裏では
光太郎に知られないように
自己を画策する智恵子がいて
とうとう
破綻の扉をあけてしまいました。
病院に収容された智恵子は
光太郎が見舞いに来ると
まるで御殿女中が主人に仕えるように
ペコペコと頭を下げる動作を
繰りかえしていたそうです。
ヒステリーだろうが
骨太で男勝りでも
気難しくて扱いずらかろうが
そこには男の幻想ではない
自分の意志を持った女が
いる。
それが当たり前の女=人間です。
子宮を持った
”女”という
人間が
いるのです。
それは鯨の母親のように
時に戦闘的でも
アルゲリッチのように
内面から突き上げる感情が
破裂しようが
それでいいです。
美人だろうが
ブサイクだろうが
短足でデブだろうが
まったく関係ないです。
そんなものは
”命”から出たものでもなんでもなく
ただただ
人間の欲の産物にすぎませんよ。
男の幻想から
外れて御覧なさいよ。
そこには
天から
子宮を与えれた
”女”としての
ワタクシ・・・が在るのみで、
それは
純粋に
はつらつと
命が
命に向き合う強さ(生命力)を
宿しているはずですよ。
だから
けっして
女の自分を
男の幻想なんかに
譲渡さないことです。
それでいいです。
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『伝心柱マガジン』
今朝、青い空を見て、ふと、自分が意固地になって日々を送っていたことに気づかされました。通勤途中に下を向いて肩をいからせて歩いていたように思います。
ビルの合間に見える小さな空だけれども、とても気が抜けた。私は何を焦っていたのかと。何にあらがっていたのだろうかと。
denshinbashiraさんの言葉でさらに楽に、気持ち良くなりました。
いつも、私にたくさんのことを気づかせてくださって、ありがとうございます。