クリスマスに・・・イエスの言葉・その1 |
クリスマスはキリスト教の
イエスの誕生日ですが
こんなに盛大に祝われるのに
日本人は果たしてイエスの事を
どれだけ知っているのでしょうか。
私はイエスこそは
”ことばの人”だと
思います。
新約聖書はたしかに
キリスト教の経典ですが
2000年前に生まれた
イエスという預言者の言葉は
とても美しいです
新約聖書で語られる
イエスのキラキラしたことば、
愛情溢れることばに
多くの人々が
魅せられて
最後にはパウロという
天才的な弟子の布教により
世界宗教へとなっていきました。
イエスが
その教えを伝えるために
たとえ話で語る話は
その情景が目に浮かび
また
比類ないくらいに
美しい!
それで今日からすこし聖書の言葉を
ご紹介しようと
思います。
まずは
新約聖書の
マタイによる福音のなかから。
福音とはギリシャ語で
”エヴァンゲリオン”と言います。
そうです、あのエヴァンゲリオン・・・ですよ。
それは
”善き知らせ”という
意味です。
天の父である神から啓示をうけた
イエスは、ガリラヤ、デカポリス
エルサレム、ユダヤ、ヨルダンなどの
各地を巡りあるいて
説法をします。
そのイエスのあとを
大勢の群衆が追いかけます。
その自分を慕い追いかけてくる群衆を見て
山に登りイエスは
語りかけます。
マタイ第5章
こころの貧しいひとたちは、さいわいである、
天国はかれらのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、
かれらは地を受けつぐであろう。
義にうえかわいているひとは、さいわいである。
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深いひとたちは、さいわいである、
かれらはあわれみを受けるであろう。
こころの清いひとは、さいわいである、
かれらは神をみるであろう。
平和をつくり出すひとたちは、さいわいである、
かれらは神の子とよばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国はかれらのものである。
イエスが幸いである…というのは
あなた方を神様が
ちゃーんと見守っているよ…という意味だと
私は思います。
誰も見ていなくても
誰からも見放されていても
神様だけはチャ―ンとあなたの事を
祝福して、みているよ・・・・ということだと
思います。
つまり
人間はその存在することすべてが
神に祝福の中に在る・・という事ですね。
そして
いちばんつらい人々に寄り添い
天国はあなた方のものである・・・と
癒します。
さらに5章のなかで
彼の教えを慕うために
迫害される人々に対して
あなたがたは地の塩である。
もし塩のききめがなくなったら
何によってその味がとりもどされようか。
もはや、なんの役にも立たず、
ただ外に捨てられて、ひとびとに
ふみつけられるだけである。
迫害されることに打ち勝って
大地の塩のようになれと
言います。
イエスの教えをまもり、従うことによって
この世を方向づける塩の味になれ、
その使命がある・・と説くのです。
私はこの「地の塩」という言葉に
とても惹かれます。
そして
その人々に
あなた方は、世の光である。
山の上にある町は
隠れることができない。
またあかりをつけて、
それを枡の下におく者はいない。
むしろ燭台の上に置いて
家の中のすべてものを照らさせるのである。
イエスの教えを聞いてそして
先頭に立って自分の家族や
人々を照らし輝かせるようになれ・・・と
いいます。
自分の事はさておいても
家族を照らす光になれと
言っています。
そして
祭壇に供え物を捧げようという場合
兄弟が自分にたいして恨みをいだいていることを
思い出したら、
その供え物を祭壇の前にのこしておき
まず行ってその兄弟と和解し、
それから帰って来て
供え物を捧げることをしないさい。
私はイエスの本質は
赦しと
和解だと
思います。
この場合の兄弟とは
神の前で、すべての人間は
兄弟姉妹であるという意味で
自分以外の他人のことを
指します。
まず自分のこころに
わだかまっていたり
しこっている人間に
自分から和解を求めること。
そのためには
相手を赦すこと。
たとえ言いたいことは
山ほどあっても
それを言わず
まず赦すこと。
それがもっとも自分を解放できる
早道だということです。
おおきな
おおきな愛の世界を持てと
イエスは私たちに
突きつけます。
さて5章の大詰め
「隣の人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは
あなた方の聞いているところである。
しかし私はあなた方に言う。
敵を愛し、迫害するもののために祈れ。
こうして天にいますあなた方の父の子と
なるためである。
天の父は、悪い者の上にも
良い者のうえにも
太陽をのぼらせ、
正しい者にも
正しくない者にも
雨を降らせるからである。
2000年も前に
これほどの平等が語られ
そして
人間の”存在”の本質を突くことばです。
正しいとか、
正しくないというのは
人間の作った世界の
ものさしですからね。
なんて素敵なのかと
思います。
キリスト教という宗教となったのは
イエスが死んだ後です。
迫害される信者たちを集め
教会という組織にしていったのは
パウロであり
パウロはむしろはじめは
イエスを迫害するほうに
廻っていました。
しかし
イエスの死後、啓示をうけて
各地を奔走し、
信者を組織化していきます。
パウロこそが
キリスト教の仕掛け人です。
パウロのことは
聖書のなかの「使徒行伝」に綴られています。
聖書は預言者達の書です。
しかしイエスが出現する前を
旧約聖書といい
あの有名なアダムとイヴや
ノアの方舟など
ユダヤ教の世界と予言が綴られています。
しかし
イエスは
その旧約聖書を批判して
形骸化した旧約の予言の呪縛から
人々を解放しようとしました。
西洋の思想、学問、文学、芸術はすべて
キリスト教が根底にあります。
キリスト教を信じなくても
せめて教養として
聖書を読むことは
おおきな収穫があると思います。
明日もまた聖書のなかの
言葉について
書きたいとおもいます。
『伝心柱マガジン』