人生はいつでもやり直しができる。 |
人間は常に人生をやり直しながら
生きている。
自分が直面する苦しいことや
厄介な事や
辛い事は常に
そこに、解決すべき何かが
あらわれているのであり、
自分の性格が悪いからでもなく
運が悪いのでもなく
他人によって傷つけられからでもなく
騙されたのでもなく
そこには何かの原因があり
気づき
解決しなければならない
サインが出ている。
特に人間には、
”確立された性格”・・・というのものは
ないんですよ。
自分が性格と
思い込んでいるものは、
幼児期、生育に獲得したその人間の
外部世界に対するパターン化された反応傾向です。
外部世界とは、自分以外の人間をはじめ
自分を取り巻くありとあらゆる世界を指します。
つまり
幼児期の周囲の人間との関係で
その人間が親やその他の人を見ながら
”学習し”
その結果身に着けた
・行動の基礎パターン
・感情が反応するパターンや
そして
感情と連動反応する
・理性の反応パターンや
さらに
それらを編集し、行動の引き金となる
その人間の観念の世界の内容。
つまり
幼児期の周囲の人間との関係で
その人間が親やその他の人間から
バトンされた
それらの人間が
”思い込んでいる観念
・人間にたいする認識
・人間関係に対する認識
そして
・社会に対する認識
それらを総合する
・自分の対外的な世界観となったもの
が
常に脳の中で瞬時にシャッフルされて
その人間の行動を
喚起し
方向づけているのです。
そして
それらも
その人間が直面する
・新しい事実や情報
或いは
それまでの自分が
・想定していなかった事実や情報に
直面しては
常に自分の内部を書き換えて
生きています。
だから
私たちは
自分の”性格”と言われているが、
しかし
確定されたものではない
自分の反応のパターンの集積を
常に
やり直し
常に
新しく書き直し・・・・て
生きています。
私たちは
いつも新しい
そして毎日
新しい自分を
生きているはずなんですよ。
対人関係で苦しむのは
それまでに獲得した
自分の中の人間観の情報が
・偏っている
・幼稚である
・汚れている
など、何らかの原因があります。
だからそれを解決するためには、
自分の人間観の内容の問題点に気づき
書き換える必要があります。
また
社会に対して適応できないないのも
自分の中の社会観の内容、
幼児期や生育に仕込んだ、或いは思い込んだ
社会観に
・ゆがみや・偏りがある
・知識や経験不足からくる認識の欠落があり、
対外的、対人的客観性が
欠如することにより
不安や恐れが発生して
その人間が適応することに
ブレーキがかかっている・・・のですね。
つまり、苦しかったり
適応できないのは
その人間の性格に問題があるのでは
なく、
その人間が
獲得し
身に着けてしまった
自分の脳とからだの内容が
どこか
間違っていたり
屈折していたり
傷ついていたり
汚れていたり・・・という
ことが
原因して
起きてくるのです。
だから
ひとつは
自分を取り巻く親や
周囲の人間の
人間観や社会観をいちど
総点検し
洗い直す必要があり、
また
それらの人々の”在りかた”
存在の仕方を
検証する必要があります。
特にそれらの人間の
・感情の発し方や、流れかた
・理性がどれだけ客観性をもっているか
・世界観がどれだけ柔軟で広いか、或いは偏狭か
について
まあ
親や周辺の人間を
まる裸にして
客観的に眺める必要が
ある・・・ということです。
だって
もともとの原因は
それらの人たちからの
間違った思い込みや
コンプレックスをバトンされているから
そうなるのですからね。
だから問題が起き
それに直面するたびに
逃げないで
それまでの自分が持っている人生の内容である
人間観や社会観を
洗い直しては
気づいてゆくことが
とても大切なのです。
・・・・・・が
私が出会った
多くの人々は、
この、
”気づく”ということすらからも
逃げているように思います。
つまり
”気づきたくない”・・・ひとの
なんと多い事か!
気づく・・・ということは
それまでの自分が間違っていた・・・と
それまでの自分を否定しなければなりませんからね・・・。
だから、
ものすごく自我が抵抗します。
私は間違っていない・・・と誰もが
”思いたい”のです。
でも、間違っているから
問題がおきるのです。
人間は、ほんとうの事を言われたり
指摘されたりすると
怒ります。怒りが湧くのですね。
或いは
心理的に
反射的に抵抗して、
相手を敬遠したりします。
ときに相手を嫌悪します。
それは
自分の深層心理が、ほんとうは
本当のことを知っているから
自分の自我が脅かされて
反応するのです。
つまりね、
深層心理は
自分が
対外的な仮面で生きてる・・ってことに
”うすうす”
気が付いているのです。
だから
自分が被っている仮面を
見抜かれたことに
怯えて反応してしまうのですよ・・・。
なぜなら、それまでの自分は
そういう仮面を被らなければ
生きてゆけない・・・・と
思い込んでいるからです。
だから
それまでの自分が否定されてしまう・・・ということは
それまでの自分が獲得した
人間観と社会観がどこか
間違っていたり
屈折していたり
傷ついていたり
汚れていたり・・・ということが
突きつけられてしまい、
自我が、怯え
プライドが崩れ(これも砂上の楼閣のごときプライドでねえ~!)
不安に駆られてしまのです。
しかしねえ~、
それらの事は
人間本来の本質やリアリティーと
矛盾するから
そこに
問題がおきてくるのであり、
それらは
幼児期の自分、
生育期の自分が獲得した人間観と社会観の思い込みによって
身に着けてしまった
対、外的世界へ向けての
自分の仮面であり、
さらに成人になってからの自分が
その仮面を脱げなくなって
もがいているのです。
そして多くの人々は、
自分が仮面をかぶっていることにも
気づいていません。
そういう仮面どうしの交流はいずれ
破綻していきます、
当たり前のことですね。
そして仮面ですから
当然のこと
そこにバリアーをめぐらし
自分の新鮮な感性や感覚を
にぶらせ、
時には自己否定して
なかったことにしてしまい、
相手や外的世界からの情報も
そのまま新鮮には受け取らず
屈折させて
受け取ってしまいます。
さらに
他人や相手は
それぞれが
自分の思い込みの内容で
反応してきますから
当然のこと、そこには
矛盾がおきてきますし、
仮面どうしの化かしあいとなるともう
ほんとうに生きづらい人生しかありません。
この仮面を脱ぎ捨てていくプロセスが
自分の中のインナーチャイルドの
汚れをとり
救い出してゆく過程です。
冒頭に書いたように
自分とは、そこに確立した性格…というものが
あるわけではなく
自分の脳が集積した情報に基づいた
反応のパターンの集積があるにすぎません。
それは
外部からの刺激に常に反応しながら
内容を書き換えて
生き延びています。
だから人生は
いつでもやり直しがききます。
そして気づく…ということは
自分の心の深層に封じ込めた
本来の自分に
気づいてゆくということです。
それは
思い込まされた仮面の世界ではなく
自分の自然な感性と感覚と
そして
安心する感情の流れの中に
生きることです。
次回は
どうして
ほんとうのころを言われたら
自我が抵抗したり
怒りだすのかについて
もっと
詳しく書きたいと
思います。
暑さに負けないで
凛々しいねえ~!
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奥友志津子・座標空間より
『怒りんぼモンスターが出現する!』
・怒りはどこからくるのでしょうか・・・???
・怒りをガマンしていると
どうなっていくのでしょうか・・???
・人間はなぜ怒るのでしょうか・・???
楽しみです。
離婚届けに印を押してくれない夫とどう向き合っていくか、壁にぶち当たっています。
向き合ってます。
職場、家庭、今でしょ!です。
職場に被災者の方がいます。
原発が憎い!とまだ思っているようです。
仕事もやる気が無く、毎日勤務の割に覚えない!
仕事をさぼる。
人手が増えない職場なので、女性陣は穴埋め状態です。 この度年二回目の面接があり上司に話すと、仕事をお願いしても良いとのこと。
ちょっとほめて、やんわりと…。
なぜ? その方以外は仕事をこなすのに。
最初、その人にセクハラらしきことをされ逃げてました。 無視らしきこともしました。
職場ではそんなことしていたら仕事になりません。
ある時期からやめて、話したり、仕事をお願いしたりするようになりました。
その言い方を勉強中です。
嫌いなので、普通に話をしていますが
きついのかな?と自分でわかってしまいます。
どうしたら、うまく伝わるかな?
家族もそうです。
ケンカ口調にならない話し方、
勉強中です。
最近気づきましたが、家庭も職場も同じみたい。
毎日挑戦というか、試験問題を解いている感じです。