こころに沁みるイエスの言葉・持っている者はさらにもち・・・? |
心に沁みるというより
常に自分の襟を正す言葉として
あまりに的確な人間洞察からくる
戒めの言葉と
いつも私は自分の心に刻んできたと思います。
それは
イエスがからし種のたとえとして
種まきが種をまいた。
蒔いているうちに、道端に落ちた種は鳥が食べ、
土の薄い石地のところに落ちた種は
芽を出したが、日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまった。
また茨の中におちた種は茨にふさがれてしまったが
良い地におちた種は実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍
あるものは三十倍にもなった。
そしてイエスは
弟子たちがなぜたとえ話をするのか・・と言う質問に
イラっとして
「あなた方が天国の奥義を知ることが許されているが
彼ら(イエスの説法を聞いている大衆の事です)には
ゆるされていない」
と少し強い口調でたとえ話をする理由言い、
さらに
「おおよそ持っている人は与えられ、いよいよ
豊かになるが、
もっていない人は、もっているものまでも
取り上げられるだろう。
だから彼らにはたとえ話で語るのである」と
そしてそのたとえ話のなかで
もしイエスの言葉、
すなわち神の御国の言葉を聞いて悟らないものは
悪い者がきて、その人の心にまかれたものを
奪い取って行く。
道ばたにまかれたものというのは、
そういう人のことである。
石地にまかれたものというのは、
御言葉を聞くとすぐに喜んで受ける人のことである。
その中に根がないので、しばらくは続くだけであって、
御言葉のために困難や迫害が起きてくると、
すぐつまづいてしまう。
また茨の中にまかれたものは、
御言葉を聞くが、世のこころづかいと富の惑わしとが
御言葉をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
また良い地にまかれたものとは
も言葉を聞いて悟る人のことであって
そういう人が実をむすび、百倍
或いは六十倍、三十倍にもなるのである
と言ってきかせます。
このたとえ話で
私がはっとさせられたのは
もっている人は、さらに与えられて
豊になっていくが
もっていない人は
そのもっているものまでも
取り上げられる・・・と
言うことです。
もちろんイエスは
神への信仰、しかもそれは
それまでの旧約聖書の世界をすてて
イエスが説く
新しい神との約束の世界、新約聖書の世界の
御言葉に従えということなのですが。
しかし人間は知恵を働かせる人間は
どんどんその知恵がはたらくようになっていきますが、
知恵も働かせず、他者に依存し
口を開けて待っているような人間は
おのずとダメになっていきます。
つまり
人間は自分の中に何をもっているか・・・が
問われているのですね。
そして面白いことに
脳の働きは
・自分にとって関係があるもの
・自分にとって価値があるもの
・自分にとって意味があるもの
に反応していきます。
そこには
重要度の優先順位がつけられ
私たちは無意識のうちに
自分が重要だと思い込んだものに
優先的に反応してしまうのです。
自分が重要だとおもっていないことには
無反応でパスしてしまします。
だから、他人との社交や世間話が
重要だと思っている人は
そういう情報に敏感に反応し、
そういうことに注意むけて
エネルギーを使い果たします。
顔や容姿が重要だと思っている人間は
そういうことばかりに捉われてしまいます。
さらに困ったことに
深刻なことや
マイナスのことが重要だと思っている人は
どんどんそういう
マイナスの情報や
深刻な事態を
自分で引き寄せていきます。
自己否定や自己憐憫が好きな人は
そういう人間にばかり注意をよせて
自分に引き寄せます。
つまり
そこにあるのは
自分の自我の状態が問題であり、
その自我が必要とするものに
人間は反応して生きてしまうのです。
ほんとうは、そのことよりもっと
大切なことがあっても
そこは、脳のアンテナが
素通りしてしまうのですよ・・・。
なぜ前回私が、狭き門とは
自分の全否定でもあると書いたかは
もう
わかる人はわかったかもしれませんが
人間はどこかで
自分の自我を全とっかえして
新しく自我を書きかえて
自分の目的意識
或いは
自分の自己イメージに基づいて
”意識的”に
自分を創り直さないかぎり
今までの自我がおもいこんだものに
ずーっと引きずられてしまうということです。
つまり
今、自分が陥っている問題や
人間関係の問題の種は
もしかしたら
自分の自我の思い込みが
引き寄せているかもしれないのです。
私はイエスが説くところの
「悔い改めよ」というのは
気づきなさいということだと
おもいます。
そしてイエスはとても厳しいひとで
弟子たちには
親も兄弟もすべて捨てて
自分について来いと言っています。
それは古い世界を捨てて
”生まれ変われ”
と
いうことだと
思っています。
彼が処刑されたのち
彼の叔父とかい言うヨゼフがでてきて
イエスの信者たちが迫害されないよう
旧約聖書を信奉うする人間たちと
妥協してしまいますが
イエスは本当は
旧約聖書に反旗を翻した
革命家だと
私は思っています。
だから、
形式化し形骸化してしまった
旧約聖書の世界を
全否定したと思います。
だからこそ、
殺されてしまったのでしょ。
もっている者はさらにもち
というのは
イエスから
お前はなにをもっているか・・・と
問われている気がします。
そこには
「心をつくし、知恵をつくし
力をつくして神を愛し、
また自分を愛するように
隣り人を愛する」
とイエスがいうように
「なんでも祈り求めることは
すでにかなえられたと信じなさい。
そうすれば,そのとおりになるだろう。」
とは、まさに
脳のメカニズムをもってしても
そういうことなのです。
自分を信頼し
自分のなかにあるものが
叶えられてゆく。
のですね。
だからこそ
お前はなにをもって
生きるのか・・・・と
問われているような
気がするのです。
深い深い
イエスの言葉です。
土をフカフカにしました。・・・・・父ちゃんがですけど・・・
端的にいえば、「死」がどんなことか誰も知ることができないからなのかもと言う気がします。
般若心経での“すべては空”と言う心境までいければいいのですが・・・。