共依存からの脱出・親の尊厳を持って子供と戦う! |
共依存の親たちに対する
大切なことを書いていなかったことに
気づきましたので
書いておきます。
親との共依存の苦しさから
子供が脱出しようとする時
当然のごとく起きてくるのが
親との対決です。
その親との対決が失敗に終わると
子供は自分が自立するチャンスを
失ってしまうことになります。
しかし
今まで自分に上から目線で
・命令し・指示し・助言していた親を
子供が退治した時
二つの結果がそこに現れてきます。
ひとつは、
お互いは一人の人間として自立し
・対等な関係になるか
或いは
もう一つの
今まで被害者だった子供のほうが
親より上位にくる・・という
関係になります。
この場合、
お互いが対等の関係になると
問題はありません。
親は子供は自立してゆくのを
喜んでいればいいし
子供はもう
さっさと親と離れて
自分の道を進めばいいのです。
が
もう一つの結果。
子供にとって今まで強く敵わなかった親が
一転して
弱い親になったとき
今までの関係が逆転していきます。
つまり
子供にとって迫害者であった親が
退治されて弱くなり、被害者になり
被害者であった子供が強い迫害者になる
という構図です。
これはいわば、今までの立場、
迫害者と被害者の立場が
逆転しただけの関係が
そのまま
持続されるということでしかありません。
問題なのは、
今まで強かった親が
おろおろし、
それまでの強い親が自信を失い
自分を失ってゆくの見た子供は
もう、絶望するということです。
子供の目に見える人間の風景が親との関係です。
自分が生きるための”モデル”である人間(親)の風景を
子供は見ているのです。
その時、
今までの迫害者としての親が
しかし、一転して
子供から攻撃されると逃げて、今度は
被害者になるという人間の風景が
これから生きようとする自分の原風景と
重なったとき
子供はもう生きることへの恐れや怯えの中に
とりこまれてしまいます。
人間社会は、親と自分の関係のように
弱肉強食の
パワーバランスしかない・・と言う風に
見えてしまうからです。
そういう短絡的な人間関係しか見えない。
そこには
自立した人間の姿は
ありませんからね。
迫害者と被害者の関係しか
或いは
親を軽蔑し
冷たい傍観者として生き延びるしかない・・・のだということは、
そういうパワーバランスを乗り越えて
たくましく生きるには
どうしたらいいかのモデルを
失うことですから
子供はさらに混乱してしまうでしょ。
いちばん最悪のケースは
今まで親からの攻撃を受けていた子供が
こんどは自分が親を攻撃をしはじめ
しかし
その攻撃する自分をどうしたらいいかが
わからなくなり
ずーっと攻撃し続ける自分を
止められなくなることです。
この時親はどうしたらいいか・・・?
結論からいうと
親は一人の人間として
◎ 親の尊厳をもって
子供と戦ってください。
そして
その戦いは
お互いが、自分を理解し
相手を理解するための戦いであり
自分の”本当のこと”を言いあう戦いであり
そして最後には
それぞれが
相手をうけいれ
◎ 和解する・・・という
明確な目的(ビジョン)をもって
そこまで
”こぎつける”という信念のもとの
戦いです。
そういう風に親が腹をくくる戦いです。
もちろん、最初は
激しい感情の応酬になるでしょう。
だって子供にすれば
自分に覆いかぶさって
自分に圧力をかける人間(親)に対して
全身で立ち向かう戦いでしょうから
容赦しないでしょう。
そして
子供から攻撃され、激しい抵抗をうけて
はじめて
親は
・自分のやってきたことの問題性に
・親としての問題性に
さらに
その奥に潜む
・自分の”人間”としての生き方の
問題点や問題性に
気づいてゆくと思います。
(自分の自我に歪みや汚れににです。)
もし
親が
自分の問題に気づかない場合は
子供は
どうしたらいいかが分からなく
どんどん絶望に追い込まれてゆきます。
言っておきますが
どの子供のこころの奥にも
自分の親に対する尊敬や親愛があります。
むしろ
それがあるからこそ
なかなか親と対決できないのです。
だから、子供が反抗したり
親に攻撃を始めた時
親が
自分自身の生き方を見つめ
自分の問題性に気づこうとしない限り
事態はどんどん深刻になってゆきます。
子供の心理は
一方で
親に怒り、親を憎みながらも
そういう風に親に対する攻撃的な感情を向ける
自分をも
憎み、否定しようとする
二重の苦しみの中に
追い込まれてゆきます。
子供の心の中は
「どうか、親自身が、自分の問題性に気づいてほしい・・・」と
祈るような願望があるはずです。
だから
親はまず、
自分の自己防衛の感情を
厳しく突きはなし、自分をあまやかさず、
親こそ
自分の生き方を
厳しく検証する必要が
あります。
その自分の検証をしたうえで
自分の間違いに気づいたら
子供に謝り
さらに
子供のからの激しい攻撃を
受けとめてください。
受けとめてくださいというのは
そう簡単に子供は納得しないでしょうから
それは親にとっては
辛くて厳しい子供の言葉が
どんどん体に突き刺さってくるでしょう。
まずは
それを受けとめ
それに耐える精神力がひつようですよ。
そして子供の容赦ない言葉の暴力を
いったん
受けとめてから
こんどは
人間としての自分をしっかり持って
子供と真正面から向き合い
自分のための反撃を
してください。
つまり
親としての自分
人間としての自分にたいする
理不尽な攻撃に対しては
いくら子供といえど
許さないという気概を持って
戦いに
応じてください。
自分の非は認める。そして
こどもの苦しさや辛さも理解し受け止める。
しかし、
それ以上の
自分の尊厳を汚すことば、
人格を貶めることばや行為に対しては
ゆるさない。
親として子どもを慈しみ、育てたことに対して
それを否定し、汚すような
受け入れがたい攻撃に対しては
凛とし
一歩も譲らないという
親自身の気迫と気力をもって
戦ってください。
その時子供はもう感情の塊で
自分を救い出すための攻撃しか頭にありませんから
攻撃はどんどんエスカレートしていきます。
そのエスカレートしてゆく
憎しみの増幅を
親の理性が
しっかりと
遮断するのです。
こどもの言う道理のここまでは、
そのとおりかもしれない、
しかし
それでも
違うものは違う
間違っているものは
間違っている・・・と
応酬してください。
そしてそこには
・理性を働かせながらも
・子供の激しい憎しみを叩きつぶすほどの
◎ 親の怒りの感情のエネルギーが
必要です。
親の親としての怒り
ひとりの人間として怒りが
が必要なのですぞ。
親として必至でこどもを育ててきたという
気概をもって
◎ 子供とタイマンを張ってください。
そして最後は
必ず
子供と和解する・・・というところまで辿りつくという
ビジョンと
気迫をもって
戦に臨むことです。
おそらく
子供との戦いは
何度も何度も、時間がかかるかもしれません。
時に殴り合いになるかもしれませんね。
しかし、そのプロセスこそ
親も子供も
もっとも大切なことに気づく道です。
親は
子供を信頼し
子供の中の透き通った純粋なこころを
信頼し続けること。
決して
あきらめないで
真正面から
子供に向き合うことです。
向き合って
向き合って
もう
お互いは
それぞれの本当のことを
言い尽くしたら
最後はきっと
晴れやかに
向き合うことができるでしょう。
私は人間関係とは
自分の中の怒りを
どのように
自分が処置できるかではないかなあ~とも
思います。
断っておきますが
処置ですよ。
解決する・・・ということですぞ。
処理ではありませんからね。
自分の中の怒りを
どのように自分の中から
吐き出し
相手に伝え
その怒りを
どのように
良き関係に昇華させていくか・・・・?
伝えるにしても
吐き出すにしても
そこには
自分も相手も
信頼するという
強い
人間に対する愛情が必要なように
思います。