究極の自己イメージへ!その1 |
汚されたりすると
エネルギーをなくし、
心理的に墜落します。
いわゆるその人間が”傷つくということも
自分の描いている「自己イメージ」が
落下した時におきる動揺だと
私は思います。
つまり、他人から誤解されたり非難されたり
或いは
自分の想定外の反応を得たりという時
この「自己イメージ」が
ぐらつきます。
それは自分のことを好きな人間も
自分を肯定できている人間も
そういう場面に遭遇すれば
少なからず
そこには動揺や不安が起きます。
さらに
自分のことを嫌いな人間や
いつも
自分を否定的に扱っている人間も
実際に
自分が嫌われたり
否定的に扱われたりすると
この自己イメージが動揺して
さらに
自分も他人をも嫌いになったり
否定したくなります。
この「自己イメージ・・・」というのが
やっかいな
曲者なのですよ。
ではこの「自己イメージ」というのは
どこから起きてくるのかというと
それは、自分と他人との間でに起きてくる
自分の現象です。
この自分のイメージ現象と
他人や社会とが
いつも向き合っているのですね。
他人や社会との間で
自分とはこれこれこういう人間だ(自己イメージ)・・・と
無意識で自覚しながら
常にその自分と
相手や社会と自分との関係をシュミレーションしながら
自分の行動を取捨選択しているのですね、人間は。
私は自分がどういう「自己イメージ」を持っているのかを
実は今、
考え続けているのですが・・・・・。
「自己イメージ」を
自分は善良で善い人間だと思い込んでいたり
そういう自己イメージを持っている人間ほど
壁にぶち当たりやすく
また
ぶち当たると
直ぐ砕けてしまいます。
しょうがねえなあ~…笑!
反対に
自分はたいしたことがない人間だという自覚や
自分の内面には
毒ガスや意地悪で残酷なものや
冷淡なものもあり
独りよがりで
身勝手なエゴイストでもあるなあ~・・。
という自分に対する
醒めた目をもっていると
たいがいのことがあっても
ああそうかあ~と
納得し、
さらに
気の利いた人間なら
そういうじぶんでもいいや~と
自分を受け入れます。
しかし、
自分を良い人間
善良な人間である・・・と
思いこみ
そういう
「自己イメージ」を持っている人間は
他人から非難されたり
反論されたり
或いは
自分の想定外の反応があったりすると
もう
そこで心が傷つき
自己イメージが
硬直してしまい
どうしていいかわからなくなってしまいます。
そういう時
その人間の頭にうかぶのが
「私は、そういう人間ではない・・」
とか
「どうして、私をそんな風にみるのか(言うのか)・・・」とかでね。
傷ついたときの自分の心を
覗いてみてください、
おそらく
こういう風なことを呟いているはずですよ。
でもね、よくよく考えてみれば、
なんとまあその頭の固いこと
限りなしなんですね~…苦笑!!
つまりね、
そこに
自分を客観的にみる・・・という
視点や
視野が欠けていると
自我が硬直し
そうなってしまいます。
ああそうか、
他人の目にはそうみえるのか・・・とか、
もしかしたら
自分が気がついていないけど
そういう風な自分もいるかもしれないなあ~。と
改めて自分を見なおすということが
できないのですね。
とても柔軟な目で自分を見るということが
できないから
硬直するのですね。
そして人間は
「ああそうか・・・」と
思った瞬間から
それが頭の中でデーター化し
つぎへの応用となります。
「ああそうか」と
うけいれた瞬間から
それが、その人間の新しい視点として
今までの視点や視野のなかに
組み入れられるのですよ。
これはね、
ひとつの”極意”でね、
自分が落ち込まないすごい方法でも
あるのです。
その指摘があたっていても
当たっていなくても
「ああそうかあ~」と
それを
客観的位置におくことで
自分の感情と距離を置くことが出来ます。
そして
そううするたび、
その人のパーソナリティーが
広がっていきます。
つまり「自己イメージ」とは
他人の目で見えるであろう
自分のイメージを
自分がイメージしているのですから、
ほんとうは初めから不確かなものであり
他人によって反応がちがうのが当たりまえですから
「自己イメージ」が
”固定化”していればいるほど
自分は傷つくのです。
そこはもう
ヌエのように柔軟な方が
いいと
思いますよ。
私はもともと”ヘタレ”の人間が大好きで
だから今でも
お笑芸人が好きでたまりません。
まあお笑いだけでなく
すべての芸能の起源も
芸術の起源も
へたった人間が
自分の
意識の
内的秩序を
取り戻すために
・笑いや
・踊りや
・絵を画くことや
・音楽をつくり、聞くということや
・こうして文や小説を書くということを
編み出したのですからね~。
だから
そういうものを見聞きしたり、読んだ時
人間は
自分の中の安定を取り戻すでしょ!
つまり
言うなれば、
立派で善良な市民なんかでは
なにも
編み出せないのですよ。
まあわたしからいうと
そういう立派な人間だと思い込んでいるヤツなど
屁みたいなもんだと
おもいますがねえ~・・・笑!
若いころ、つまり
大学生の頃やっていた
同人誌のボーイフレンドと
ある詩人の詩について
話したことがあります。
ほとんど無名のひとでしたから
名前も忘れてしまいましたが
その詩人は、もうヘタレでどうしようもなく
詩の内容は
雨の中、コケての水たまりに突っ込んで
泥水を飲んで
ヘタリこんでしまう自分のことを
書いてありました。
でも
そのころの若い私も彼も
この詩がいいねえ~と
話し合いました。
この
ヘタレ感が
なんとも若い私たちの精神状態そのままでしたね~。
なあんもできないや~、私たち。という無力感や
疎外感が
自分に張り付いていたと
思います。
でもね
その詩人の詩の
あのヘタレがあったからこそ
彼がもう
そのどぶ水に顔を突っ込んで、ヘタリこむしかなかったからこそ
その地上から見上げる空が
果てしなく広く見えたのだと思いますよ。
その詩にはもちろん
空のことなど
何もかいてありませんでしたが、
その詩に共感する彼も私も
そこから
おそらくその空を見上げていたと思います。
そのボーイフレンドは後に大変なヒットを飛ばす
コピーライターになりました・・・すごいね~。
私もいつもどこかに
ヘタレの自分がいたから
ここまでこれたかなあ~と
思います。
人間は
誰もが、
善良な市民でもあり
誰もが
毒や短刀を胸に潜めている
小悪人でもあります。
そしていうなれば
インナーチャイルドというのは
そういう意地悪で嫉妬深くて
毒ガスをもった
自分の内なる小悪人のガキです。
しかし
このクソガキを受け入れると
人間は
とても強くなります。
このクソガキが
人間は
綺麗ごとでは生きれないと
教えてくれます。
そういう善良な市民も
クソガキも
すべてが
自分であり
自分の分身であり
人間とは
そういうもんで
だからこそ
退屈しないで生きれているのだと
思います。
次回は
この自己イメージを
究極的に料理し、
始末しようという
わたしがいます。
それを書きたいと
思っています。
25年前に書いた本です。 よかったらどうぞ!
そおですね、ヘタレのクソガキ!!!!!!
若い頃はそんな自分が嫌で嫌で
なんとかまともに
なんとか立派に
なろう、なろうと必死でした。
だからでしょうか?
ヘタレさんや
クソガキが嫌いでした。
出会うことを避け続けてきた。
今は泰然自若とした方に出会うと
萎縮してしまっていました。
私にはとてもできないって。
でもとてもできないヘタレで
幼くて、おっちょこちょいの自分で
いいんだぁ~って。
自分ができないことを
さらっとやってのける方には
萎縮するんじゃなく
ちゃんと頼ろうと思います。
きっとその方には
できないことを私もできるんだろうから