自分に愛情を与え続ける!その3・自分の言葉を持つ・Ⅱ |
戦争中に
主人公のめ以子さんが
天敵である
小姑の和江さんのところへ疎開し
どんどん自分の周辺から
身内が誰もいなくなり
さらに次男の戦死の公報が来て
心身を喪失してしまいます。
そしてだれもいなくなったとき
天敵の和江姉さんに
一人でご飯を食べるのがつらいので
一緒に食べてほしいと
お願いするのですが
和枝さんは
貴女はこれからも
ひとを見送るかもしれなひとだから
今から、一人で食べることに
慣れていたほうがいい・・・と
にべもなく
突き放します。
それをみていて
私はやっとめ以子
さんが
自立をつきつけられたなあ~と
思いました。
このドラマは「ちりとてちん」以来に
久しぶりに毎朝つづけて見ているもので
とても面白いとおもっていますが
でも
私も
め以子さんの甘ったれには
和枝さん同様、
ちょっと
イラっとしていましたので
和枝さんのこの
厳しいことばは
小気味良く
ひさしぶりにテレビドラマで
溜飲をおろしました。
和枝さんを演じている女優さんも
いいですね~!
自立ということは
そういうことだと
思いますよ!
底冷えするくらいの
孤独を
引き受けるという覚悟を
持つことです。
さて
言葉についての続きを
書いてみましょう。
言葉をつかいこなしていくには
脳の成長が必要ですね。
脳の成長と共に
脳の中の基礎データーが
充実していく必要があり
それには
時間がかかります。
その基礎データーを
子供は、親や周囲の人間から
収集していくのが
子供時代なのです。
まったく無の状態でうまれてきた人間は
親や周囲の人間の言葉を聞きながら
口の動きを模倣しながら
少しずつ
言葉をしゃべれるようになります。
つまり他人の言葉をまねたり
”パクリ”ながら
自分の言葉としてデーター化していくのです…笑!
そして
誰もがそういう風にして
他人の自我から出る言葉を真似しながら
また
それを追体験しながら
自分の自我の意識を作っていくのですね。
だから子供が
言葉の中に含まれる
親の自我をコピーしてしまうのは
仕方のないことないことでもありますし
それは親の自我世界を
バトンされることでもあります。
つまり
人間は
自分の言葉ではなく
他人の言葉を真似しながら
言葉を学習していきますから、
まあ、どこかで
もしかしたら
いったい私は
私の言葉を使っているかしら?
或いは
私は、私の言葉をもっているかしら・・?と
気づかない限り
”わたし”という意識は
他人の言葉ばかりで埋まっているということも
言えなくない!
よーく自分の言葉を観察してみると
親の言動にそっくりの自分や
友達や先生の言葉をそのまま真似したり
それを記憶して使ったり
或いは本を読んで仕入れた言葉を
使ったりしている
自分の言葉世界がありませんか?
実は私も自分の中には
そういう他者のことばが山のように積もっているな~と
実感したことがあります。
私は39歳の時に一冊の本を書きましたが
その時、もう
天から言葉が降ってくるような状態でしたが、
でもそれは
子供の頃からずーっと私が仕入れたり
自分の頭の中に仕込んだ言葉や文脈が
まあ、
ほとばしりでてきたなあ~と
おもいましたよ!
そして言葉の奥には
その言葉を使う人間の文化や心理的世界が
内蔵されているのですね。
もっと平たく言うと
その言葉を私にくれた人や
或いは
私が模倣した人たちの
文化が張り付いている…ということです。
だから
言葉は
単に
その意味やコミュニケーションの機能だけでなく
その言葉の裏や奥には
その人間の世界が広がっており
その世界の突端を集約して
言葉にしているということでも
あるのですね。
そしてこのブログでもしょっちゅう書いている
いわゆる
自他の分離ができていない・・・というのは
極端にいうと
他人の言葉、
親の言葉世界からの自立が
出来ていないということでもあります。
意識とはそういう言葉で記憶されたものの
集合でもありますから。
自分が自覚しない限り
他者と自分の世界が
混同されて
混沌とした状態の自分の中に
自分が浮かんでしまいます。
いわば、
自分と他者とが混濁した状態の意識の海の中に
言葉が浮いているようなものとも
いえます。
その他者の代表が親ですから
親と分離することに
目覚め
今度は自分の体験と考察に根拠をおいて
自分の意識づくりを始めないと
どうしても自他の分離ができません。
この親と分離して
一人で生きていこう・・・という覚悟が
とても大変な勇気を要するのですね。
とても厳しいことですが
そこから
今度は
自分とは全く違う様相をした
世の中や他人が
見えてきます。
あの
醒めている和江さんのようにです。
だから
なかなか自他の分離は
とても厳しく
難しいです。
もともと人間は
それぞれが
自分独自の体験と経験のなかを生きており
それを記憶していきます。
つまり
体験も経験も記憶も
他人とは
全くベツモノです。
もっというと
体験も経験も
記憶も
他人とは
共有が不可能なのです。
それぞれが自分の経験し体験し記憶の記述した
自分のプセルの中に入っている状態ですから
人間は
それぞれの個人的な
体験と経験を記憶していくのです。
そして個人的な
心の歴史を紡いで
生きて延びているのですぞ!
しかし
親と分離することを
恐れる子供の意識と感情
(ひとりで生きることを恐れる意識
一人で生きる自信がない感情))
は
自分の体験や経験の記憶の方を
抑圧し(インナーチャイルド化し)
親の意識をそのままコピーして
まるでお互いが共通の意識や記憶をもっているかのような
錯覚の世界で生きようとします。
しかしそれは様々な試練をうけていきます。
親から離れて独立し
自分ひとりで生きようとするかぎり
その親のコピーの意識は
様々に社会や他人の意識とぶつかり
書き直しが要求されていきます。
特に挫折や失敗こそ
その子どもが親のコピーを
書き換える大切なチャンスとなります。
挫折や失敗をするたびに
今度は自分が直面したことを
自分の言葉に書きかえて
いけるのです。
さらに
それまでの体験や経験による記憶も
書き直されていきます。
それは
その人間が
自分ひとりで直面するからこそ
獲得できる
自分の言葉なのですよ!
さらに
そこから
今度は
自分の正直な思いや
感性や感情と一致した言葉で話をしていったなら
どんどん言葉は自分のものになっていきます。
しかし
問題なのは
そういう風に
いつも自分と一致した言葉を
くちにすることができるかどうかです。
そうではなく
自分の心とは一致しない言葉や
逆に裏腹な言葉をしゃべっていると
言葉はどんどん自分から
遠くなっていきます。
また
言葉を
自己防衛の道具として
言い訳に使ったり
或いは
相手を攻撃する道具に使ったりしていると
自分のしゃべった言葉で
自分が
侵され
汚されて
いきます。
ニセモノの言葉ばかりを
使っていると
そのニセモノの自分ばかりを
育ててしまうということですね。
それは
とても
苦しい自分です。
言葉こそ
それを
どういう風に
使いこなしていくか・・・という
考察が必要をです。
考察こそ、
自分の前頭葉世界を
鍛え
磨き
前頭前野の高次な次元へと
自我を導いてくれると
大切なことです。
そして
自他の分離を成し遂げていくには
和枝さんくらい
凛とした気迫で
生きる・・・という
決心をすることですね。
このたび""YouTube"で
いろいろなお話をすることになりました。
まずは
・物語の中から奔放に読み取ってみよう!というシリーズで
今回は
「竹取物語」と
「シンデレラ」を取り上げ
女優の本田絵美さんと対談しています。
どうぞよかったら、みてださい!
先日アンデルセンの「親指姫」と「人魚姫」を収録しました
近日公開です。
自分でいうのもナニですが
ちょっと面白いとおもいますよ!
自立とは自分の中にある能力や生命力に目覚めることでもあります。嫌悪を感じているなら、それは親に負けて委縮していることですから段ボールを叩いてその親をを追いだしてください。その親はあなたが子供のころに接していた親のイメージが記憶の中にいるのです。だから親のためにも追いだしてあげるといいと思います。