ks様,その通りですよ! |
その通りですよ!
人間がにんげんとして或る・・といいうこと
人間が人間として尊いのは
それは
自分のいきることに
使命感を持っていることなんだね。
そこには
前頭葉の働きである
意識というものを
持って
高踏に生きる生き物としての
自分が問われているんですね。
そういう高次な脳をもつ人間として
まさに貴方のいうように
● 「人のため」という価値観に依存・・・というのでは
いけませんね~。
それこそ
善意という名に隠れた
共依存です。
甘えです。
そういう人は
自分が善意を施してあげる人間に
依存して
自分の価値や使命感を
作り上げている。
ニセモノの善意と献身であり
偽善です。
自分が持つべき使命感とは、
~してもらう・・・ということでもなく
また
~してあげる・・・といううことでもない
使命感をもつ。
つまりその使命感とは
感情レベルのことでは
ダメなんなんだね~。
感情を克服し
しっかりとした
理知の働きのもとに
厳しく自分を律する
理性の働きである必要が
あります。
つまり
何かの使命を果たしたとき
その
自分の行為や行動の結果に対して
他人から喜ばれ
受け入れられて
自分が
いい気持ちになる・・・とか
自分のこころが満たされる・・・ということでは
ないんだね~。
そういう風にして
自己存在を確かめる
自分を味わう・・・のでは
ないんですよ。
喜ばれようが
喜ばれまいが
受け入れられようが
受け入れられなくても
そんなことなど関係なく
そんなことなどを超越して
自分が自分の人生を
生き抜いていくために
つまり
自分の生き方として
人生に価値を見いだし
使命感をもつ・・・・と言うことです。
自分が存在していることそのものが
誰にも依存せず
しっかりと
自分の孤独を引き受け
そのうえで
”貴方はどのようにいきるのか”・・・と
問われている。
そこに”生きる使命”があるよ…ということです。
決して自分の使命感に依存しては
いけないんだね~。
つまり,あなたの父親のように
● 「人のため」という価値観に依存・・・しては
いけません。
何の見返りがなくても
誰にも知られなくても
誰にもうけいれられなくても
その生きている証として
自分が
自分に対して
自分の使命をもって
答えることなんだね!
たとえば何の役にたたない
石ころだって
そこには使命感がある。
その石ころのおかげで
土に強度ができ
土を踏みしめて歩く(移動する)ことができる。
それは人間の役に立っていなくても
他の生きものの役に立っているかもしれない!
しかし
だれも石ころのことなんか
知りゃしないけど
石ころだけは
自分のことをしっていて
その自分を全うしている…って訳ですね。
自分が
自分で
自分を律していく・・・つまり
自律(自立)なんだね!
人間においては
その人間が
甘えや依存の感情レベルを
脱却していないと
ダメなんだね。
人間の脳のメカニズムから言っても
人間はだれもが
孤独でひとりぼっちで生きるしかないんだよ!
それが
当たり前なんだ。
しかし、その辛さを
他人に依存したり
観念で幻想化してごまかしたりして
多くの人間はそこから
逃げているに過ぎない!
だから世の中には
もめ事が絶えず
迷える子羊たちの群れとなる・・・・・。
その孤独をちゃんと認識し
その孤独を引き受けるには
感情から脱却し
理性が
必要なんだね!
人間の脳の扁桃体は
感情を司っていますが
そこで起きる感情は
短絡して起きてしまう感情です。
扁桃体を通り越して
前頭葉まで、その感情の許になるソースが届くまで
時間がかかります。
だから
偏桃体のレベルで感情が興奮しだすと
もうそこで、その情報は短絡したままで放置されて
前頭葉における客観的な吟味が
されません。
もっと具体的にいうと
扁桃体がその情報を自分にとって
不利であるとか
危機であると…いう風に
”短絡的”に思い込み
つまり、
その現象を
よくよく確かめもせず
その”言葉”の前後の文脈をも
きちんと吟味せず
相手の行為の本質を
見極めもせず
そう
思い込んでしまうと
もう
そこには
正常で正確な認識が
起きなくなるのです。
そして
”感情の害”で書いたように
自分と相手との間での
様々な繊細で複雑な出来事を
その時の感情に短絡させて
一挙に、チャラにしてしまうのです。
逆に
自分の感情の陶酔(偽善・ナルシスト・自己陶酔)におぼれてしまうと
すべてを
自分の都合の良いように
短絡させて、思い込み
相手や社会の実体やその本質を見極めもせず
確かめもせず・・・YouTubeでお話した『赤いろうそくと人魚』のシャドウのように
甘えてしまうのです。
この感情をいかに克服するかが
人間の大きな課題です。
そして
人間の
ほんとうの真実。
脳はすべてが
”個絶している”と
いうこと
人間は、その個絶において
”自分の孤独”を生きるしかないのであるという
厳然たる事実。
だからこそ
人間は自立しなければ
ならない。
自立によって
始めて
自分の幸福は
手に入るということです。
人間の弱さや愚かさが
創りだす
様々な
陽炎のような
人間幻想と社会の幻想に
惑わされることなく
生きてゆく。
それは
自分の内面と向き合い
自分の中の依存や甘えに気づき
自分の生き方のゆがみを
修正してゆく。
つまり
他人がどうあれ
社会がどうあれ
それとは
関係なく
自分にとって
自分をどう生きるか・・・・ということでしか
人生を究めることができないでのす。
そういう風に自分を
極めて行ったその延長上に
今度は
自分と他者
自分と社会とを
どのように関係させていくか、
それらと
どのような関係を
創りだしてゆくかが
今度は以前とは違う風景として
明確に見えてきます。
それは
貴方がコメントに書いてくれたように
しっかりと自分の孤独を引きうけて
「自分の人生の帳尻を合わせていく」…という
そういうことです。
その決意ができたとき
自分は世界であり
世界は自分であり
自分にはない、
他者の世界との
新鮮な出遭が
始まります。
お互いが、新鮮に出会い
お互いの生命が
イキイキと躍動し
甘えや依存のない感情を
発火させながら(エランヴィタール!)
一緒にかつ創造的に
生きてゆくということが
見えてくると思います。
貴方が気づいてきたということは
まあ、これほどの大げさなことでなくとも
ささやかに
しかし、新鮮な
他者との出遭いが
貴方を満たしてくれると
思います。
良かったね!
無心に咲いて自分を究める!
いよいよシャドウのことをお話した
YouTubeがアップされました。
どうぞごらんください。
● 赤いろうそくと人魚・シャドウについて
● アンデルセンの男性性について
しゃんとした錫の兵隊・みにくいあひるの子・もみの木
親指姫
人魚姫
「竹取物語」
「シンデレラ」