この世はなにもないよ! |
このところ小津安二郎監督の作品を
6,7本か見せてもらいました。
はじめは分らなかったのですが
でも、次第に
小津監督が何を言いたいのか
そしてなぜこんなセリフ廻りしをするのか
などが
どんどんわかって来ましたよ。
詳しくは対談の中で
お話しようと思います。
村上監督から、
小津さんには
深い戦争体験があるとお聴きするにつれ
あゝ、もしかしたら極限とまではいかないにしても
人間の表裏と脆弱な限界を
体験しておられ、
なお
その上に人間不信へと陥いらないような
小津監督の覚醒があったのかもしれないなあ~と
思いました。
このところ、宮沢賢治のことで
仏教関係の本を
再度読み直しましたが、
釈迦如来=ブッタの説いたことは
極めてシンプルで
苦から脱却するには
何事も
・人間は関係性の中にあり=縁
・貪らず=諦
・極端にならず、ヴァランスを取りなさいよ=中道をゆく
・最後は空=すべては幻想ですよ。なにもありませんよ!!
ということだと思うのですが、
しかし
これでは物足りない後世の人たちが
ドンドンお経の中で
自分たち都合のいいように
仏教的虚構世界をつくりだしたのだあ~と
思います。
釈迦は内面を磨くことと
自己コントロールを
説いているのですが
それには
物足りない人たちが
衆生を救うための
一大スペクタルとしての
とてもわかりやすい物語世界として
維摩経や
華厳経や
法華経などの
虚構世界を創造したのだと
思います。
でもね
それは
人間が創りだした虚構世界ですから
やはり
幻想で
いつかは
消えてしまいます。
おそらく今の時代は
その宗教的虚構の幻想が
壊れて行く時代がはじまったのかな~とも
思います。
とても厳しいことですが、
最終的に
自分を救うのは
自分しかないと
私はおもいます。
そのことを
小津監督は
わかっておられたのではないか
思います。
賢治の場合は
この世は
なにもないよ(空)・・・ということの
寸前まで辿りつきましたが
最後まで法華経への幻想を
捨てきれませんでした。
では
私自身はどうかというと
このところしきりに頭に浮かぶのが
<自分への執着を捨てる>ということで
この二週間ばかりは
それが頭の中をグルブルめぐり
神経症のように
それに憑りつかれてしまいました。
いまもその中で
迷走しています・・・・笑!
で
ちょっと行き詰まっていますので
以前に書いたブログを
よみかえしていたら
こんなものがありました。
「往きの眼と還りの眼」
往きの目と
還りの目で
ためつすがめつ
自分を
眺めてみるか、
そうして
ここを抜けたら
私ももう一皮むけるなあ~と
思います。
ちょっと疲れているけど、素敵だなあ~。