闘うということ・その6 重要なのはコンテクスト! |
素晴らしいですよ。
まさかこんなにも
私が考えていたことと一致することを
考えている人がいるなんて
ああ、
生きてて良かった・・・!!
氏は現代アートを鑑賞するにも
それを制作するにも
また自分の作品をもって
世界へと飛び出すにも
そこに
「コンテクスト」(文脈)がなくてはならない。
まず現代アートのコンテクストを
読み解かなければ
それは
全く理解できないであろうと
書かれています。
もうその通りなんですよ。
なぜデュシャンが便器を作品にしたか
どうしてポロックは絵の具を投げつけて
描かないで作品にしたかは
それが
単なる思い付きでもなく
衝動や衝撃でもなく
彼らの前に横たわる
それまでのアートの歴史のなかに流れている
アートの文脈にたいして
自己のリアリティーをそれに串刺して
表現しているということです。
詳しくは是非村上氏の本を買ってよんでください。
カウンセリングも本質は
来談者の
(私はクライアントという言葉が嫌いですので来談
者と呼びます。)
それまでの人生の文脈のなかに
もう
おでんのなべ底大根に沁みこんだような
出汁のように
その人間にしみこんでしまっている
その人の文脈と向き合わなければ
何も解決できないと
私は
思って来ました。
だから
私のカウンセリングを受ける方は
まずは
<風景構成法>で絵を描いてもらい
その人の文脈の全体世界を
分析することから
はじまります。
※言っておきますが
その絵から
私がいろいろと申し上げるのは
占い師や霊能師が
物を言い当てるのとは
違いますからね!
時々
よく当たってます!という
勘違いをするひとも
ゐます…トホホ!
そこに流れている
その人の
自分の全体世界を
見るのですね。
その文脈は来談者の
親や祖父の代の、
もしかしたら
もっと昔の過去から
その人に
何が
バトンされてきたかを
その人が
無意識に書いた絵の
中から
読み取ります。
その人の頭と体にもう
煮汁のようにしみこんでいる
既成観念や
固定観念は
規範意識です。
それは
意識では明らかになりませんから
その人が
直面して苦しい時
そのときこそ
そこになにがあるかを
カウンセリングしていきますから
何年もかかるのです。
だからこそ
私は
私が死ぬまで付き合うよと
お話するのです。
では
コンテクストとは
なにか。
それは
昨日お笑芸人の<ナイツ>のところで
少し書きましたが
お笑いを例にとって
お話してみましょう。
このお笑芸のコンテクストとはなにか
そこを掘っていくと
おそらく室町時代>くらいまで
遡らなければならないかと
思います。
つまり
日本のエンターテーメントは
室町時代のころ
やっとその姿が
市民権を得てくるからです。
ご存じのように
室町時代に
日本の文化の礎が築かれました。
その礎を築いたのが
当時の社会の
・最底辺にいた人間
・棄民の人たちです。
つまり
体制内でおとなしく
権力者に従う大衆ではなく
もっと階級的に下であったり
階級すらない
社会から
はみだしたり
逸脱したり
放浪したり
あぶれ出されたして
中央の文化圏に
入ることができなかった人々です。
しかし
その人々は
おとなしくして
優等生のように
権力者の市民幻想や規範に
従う・・・・という
しがらみを
持っていませんから
そこには
自由で奔放な
高い文化的発想が
できました。
高い文化とは
聖なるものも
悪なるものも
すべてを包括する文化です。
それに目をつけたのが
禅僧の国師夢窓や
足利将軍家です。
※これはその義政のことを書いたブログです。
時に夢窓礎石や義政は
身分を超えて
才能のあるものを
登用しました。
それらの多くは
河原者と言われる
最底辺の人間や
棄民の人間たちで
実は
ここにお笑芸人の原点、起点が
あり
ここから文脈が始まっていきます。
つまり
笑を売って
おあしを
頂くというのは
権力者の体制のフレームのなかで
お行儀よく暮らしている人間の
ストレスの
たまりにたまった毒ガスを抜く。
それは
体制のフレームの中にいる人間は
しがらみに縛られ
言いたいことも
言えず
本当の事もいえないが
体制外の棄民や放浪者なら
それこそ
言いたい放題に
揶揄できるわけです。
ちなみ
笑の本質は
「ほんとうのこと」を言うことです。
エラそうにしている親父がこけたら
その
本当の姿をみて
人は
笑うでしょ。
言っちゃーいけない
ほんとうのことや
悪たれや
悪口を
芸人が毒づいてくれた時
胸がすーっとして
笑うのです。
まあ詳しく書き出したら
きりがないですが
その文脈のなかに
営々とお笑いの本質が
かきこまれながら
現代にまで
至っているということです。
そしてその文脈は
時代時代のお笑芸人のなかで
バトンされ
煮汁や灰汁のようにしみこんだものが
師匠から弟子へ
弟子からそのまた弟子へと
ずーっとてお笑の底流で
引き継がれてきたはずなのです。
そのことを知識としてではなく
からだでしっていると
いうのが
昭和までの芸人たちだと
思います。
だからこそ
ナイツが
<内海 桂子>いう
優れた師匠の弟子になって
桂子師匠のなかのおそらく
骨までしみこんでいるであろう
芸人としての規範や
経験値、世間知
そして芸人魂と
その矜持を
塙君と土屋君が
師匠から伝授されたということに
そこに
なんか他の漫才師とは違うものが
あるかもしれないなあ~と
そのスーッ姿を見ながら
私は思うのです。
※ ナイツの二人が
いつもスーツを着るということも
そこに意味があるとおもいます!
スーツはいわば彼らの鎧の役割をしていると
私はおもいますが・・・。
山ほどいるお笑いの芸人の中で
どれほどの人間が
笑いということの
コンテクストを踏まえているのでしょうか。
それのことは
大衆のリアリティーの中で
淘汰されていくことで
答えがでると
思います。
現代アートも
ずっと紀元前2000年ころまで
遡り
まず絵を描くということから
あるいは
絵を描くひつようがある
という原点から
絵の世界から芸術の世界へ
辿りつき
そこからまた
さらに現代まで
その文脈がバトンされているということです。
それを
勘違いしてしまうと
自分の思いつきとか
自分の感情の捨て場とか
自分の私小説的世界を
芸術と
思いこむ勘違いを
してしまうのです。
そこに客観的な
コンテクストがないと
人種や民族をこえてなお生きる
生命力に欠けてしまいます。
そのコンテクストは
人間のいちばんリアルで
かつ
純粋なものへと
向けられなければ
単なる個人の事情のところで
とまるしかありません。
それはとても大変な
闘いをするしかないと
思います。
※私はイタリア旅行で
ポンペイの遺跡のなかに
当時の娼婦たちのカタログの姿絵が
壁に描かれてあるのをみて
とても感動しました。
多くの日本の観客は
そういういことを
理解できない
理解していないのが
現状です。
また
そのことを
理解できるような
評論もないし
解説もないし
それを理解できるような
美術教育も
いまの日本にはないのです。
勿論
そういう問題意識をもつ人間すら
いないから
日本では芸術家を
排出できないのです。
そして観客は
分りやすい印象派の絵ばかりに
群がる!
同様に
カウンセリングも
その人間の刹那的、
対処療法てきに
いわば面会で
傾聴するのでは
何も解決しないと
わ・た・し・は思います。
来談者のなかに
沁みこんでいる
親、や爺さんや婆さんや
そのまた前の
曾じいさんや曾婆さんからバトンされた
その一族の観念・怨念(思い込み)や
文化や禁止令などを
射程のなかにいれながら
カウンセラーが解析し
本人が直面しては
そこを
明瞭にし
解決していくために
サポートする
それは
いわゆる今の
カウンセリングという範疇では
無理だと私は思っています。
だからこそ
人間と人間の出遭いとして
私は向き合おうと
思いました。
そういう心理の文脈を読み取れる
カウンセラーを
育成しないできた
日本のカウンセリング界は
いくらボスが
文化庁長官になっても
何も
革命はおきませんでした。
むしろそのオッサンそのものが
個人の文脈という問題意識に
欠けていたよう
思います。
おそらく
このデジタル社会がすすみ
一昨日かいたような
<ほ〇日新聞人間>のように
情報、知識を切り張りしてしか
自己アイデンティティーを
立ち上げられない人間が
つまり
体験や経験が希薄なために
虚構そのそのまま
自分に切り張りして
中が空洞化し
自分の
実感を感じられない人間、
その空洞の闇を持ち
そのシャドウに苦しむ人間が
つなみのように
溢れてくるであろう
この現実の
近々の世の中を
どうするのかなあ~???
さて
いよいよ
<イ・チャンドン>の映画についても
対談がU-チューブにアップされました。
今日書いたようなことも
ふくめ
是非ご覧ください。
映画から自由奔放に読み取ってみよう
第2回「オアシス」映画監督イ・チャンドンの世界
次回からは<イ・チャンドン監督>の映画について
全作品を詳しくかいていこうと
思います。
思いきり、花ひらこう!!
昨日DVDが届きました。
素敵なお手紙もいただき、ありがとうございました。
何だか元気が出ました。
DVDはまだ観れてませんが、時間を作って近いうちに観たいと思います。楽しみです。
最近「家族連鎖のセラピー ゲシュタルト療法の視点から」という本を読みました。
まさに祖母祖父、父母から伝わる未解決な問題について書かれてあり、私はその世代連鎖を引き継いでいるのだなーと思っていました。
おでんの出汁!素晴らしい例えですね。
おでんも出汁が程よくしみてるときは美味しいですが、しみすぎた大根は何だか美味しくなさそう…。
どろどろに煮詰まった出汁をなるべく薄くしたいです。