イ・チャンドンの世界から ・オアシス! |
オアシスの主人公は、
前科3犯の少し頭の弱い?
ジョンドゥと
脳性麻痺の女の子
コンジュです。
※ ジョンドゥを演じている俳優は
「ペパーミントキャンデイの
キム・ヨンホを演じたソル・ギョング氏で
コンジュを演じるのは
ユン・スニムを演じたムン・ソリ嬢で
この二人がそのまま
スライドして
恋人役を演じています。
素晴らしい演技だと
思います。
まあ、
一般的にみると
二人の純愛物語のように
見えなくもないですが
しかし
私の目にはこのストーリーの奥にある
・人間の意識と認識について
つまり
私たちが意識し
認識していることは
ほんとうに
そうななのか。
目に見えている世界と
目に見えていない世界との
整合性を
私たちはどうしたら
いいのか。
という
深い省察を
問いかけているように
思いました。
おおよそのストーリーは
対談で村上さんが
お話しましたので
それよりも
もっと
わたしたちが
向き合わなければならない
この映画が突きつけてくるものについた
書いてみましょう。
前回の「ペパーミントキャンディー」の
主人公キム・ヨンホに比べると
「オアシス」の
ジョンドゥとコンジュは
その人物デッサンが
格段に明瞭になり
その内面の掘り下げが
深くなっています。
これはイ・チャンドン氏の中の
人間観の射程が、
かなりしっかりしてきたと
いうことではないかと
思います。
ジョンドゥは表の顔は
もしかしたら、
軽い障害があるのかもしれませんが
彼は確実に
すこしオツムが弱いという風に
<自分を偽装して生きている>ようにも
見えます。
そこには
人間としての表裏とその影を
しっかりとデッサンされた
ジョンドゥが
立体的に
生きています。
そして
コンジュの方も
脳性麻痺という障害を
持っているために
否応なく障害者として扱われる
現実のなかで
本当は深い知性や理解力のある
聡明な女性であることを
彼女自身も隠して
生きています。
もうこのふたつを見ただけで
この映画の
根底には
表の世界と
裏の世界という
二重の立体構造層が
あるということが
わかります。
この二重の構造層を
基底に
現実の状況と絡みながら
さらに重層構造の
人間世界を
創りだしていきます。
つまり
「ペパーミントキャンディー」の
キム・ヨンホが
あまりにも
一面的な生き方であるばかりに
破滅してゆくことに
対して
この映画では
ちゃんと
主人公たちが
・表の顔と
・裏の顔を
使い分けて
いき延びようとしているのです。
つまりそれは
社会というものも
表裏の
二重の中にあるという
ことでも
あります。
そのことを
私は対談の中で
<イリュウ―ジョン>であると
お話ししました。
真実と思われていることが
実はそうではないという
魔法的パラドックスの
世界です。
そんなこと
当たり前のことと思って
疑っても見なかったけど
ほんとうにそうなの?
という世界です。
そしてそこを見間違え
表面の層だけを見ていると
私たちは
大きな勘違いの世界を生きることにも
なりかねません。
でもね、
本当は勘違いをして生きていると
思います。
い・チャンド氏の視線が
そこへと
確実に突き刺さってきているように
私は思います。
だからこそ
グリーンフィシュの
マクトン青年と
裏社会のボスのペ・テゴンが
ジョンドゥにおいて
統合さているように
私は思いますし
更に前科3犯のジョンドゥの中には
ペ・テゴンの
どす黒いものも
マクトンの持っていた澄んだ心もが
バトンされているように
思います。
勿論
それは
キム・ヨンホの中にもあるものです。
しかし
どすグロかろうが
それを超えてなお
自分を根拠に
マクトンより
キム・ヨンホより
はるかに
図太く
とてもしぶとい人間が
ここにはいます。
そして
同じように
誰一人として、
彼女のことを
理解していない環境のなかで
生きるコンジュは
自分の孤独をそのまま受け入れ
キム・ヨンホのような
自己蔑視と
自己憐憫のなかには
陥っていません。
陥っていないどころか
何もわからないふりをして
相手を
化かしているようにさえ
おもえます。
だから
油断した隣の夫婦の
むつみごとを
ドアの隙間から
盗み見る
図太ささえ
持っています。
素晴らしいね!
そして彼女は
自分から積極的に
ジョンドゥを
誘い出す!
自分の父親を
殺したあいてにも
かかわらず、
です。
そこには
必要とする相手を
そのまま受け入れ
自分を曇らせずにみようとする
二人がいます。
つまり
この二人は
いわゆる
市民社会のフレームから
疎外され
指定席を与えられていない
人間です。
しかし
だからこそ
そこに純度の高い
人間性を保持できる強さがあり
イ・チャンドンは
それを逆手にとるような生き方を
彼らにあたえています。
つまり
視点を変えれば
社会のフレームの
指定席がないからこそ
彼らは
既成観念からも
市民社会からの倫理からも
規範からさえも
自由であり
さらに
弱者として
虐げられているからこそ
その個性が守られ
際立ち
自分の世界を
市民社会の毒で
犯されていない。
社会指定席ではない
自分の定席を持っている
二人です。
それは
指定席を諦めたが
自分を根拠にいきている
定席であるからこそ
二人の間には
純化された言葉と空気だけが
行き交う。
そこには
社会のフレームと
その文脈に
毒されていないため
社会的な
手続きは
必要ないのです。
この映画の制作にあたって
明らかに
前作とは違うイ・チャンドンがいます。
おそらく
イ・チャンドンの中に
何かが決意され
覚悟されたのではないかと
私は思います。
対談の資料として
村上さんから彼の小説2編を
頂きましたが、
それを読むと
そこには
まだ
立ち位置が決まらず
思案し
迷っている
作家としてのイ・チャンドンを見ます。
しかし
この「オアシス」では
もう
彼の
<定点>がしっかりと据えられています。
その定点とは
先日書いたように
人間を
裸にして
おこりうる現象すべてを
相対化して見よう!
という
自分の座標です。
この定点という位置は
カメラを据える定点のようでもあり
作家が
自身の存在と精神の内容を
網羅してなお
その足場として定められる
映画を創る者の意志による
定点です。
もしかしたら
同じ映画監督の
小津安二郎からの遺産を
イ・チャンドンが
受け取ったとも
言えるような
定点です。
何をどのように
表現していき
伝えうるか・・・・。
という定点です。
それは
安逸に人間を語らない!
人間の存在の全貌を
相対化する。
いわゆる
ありとあらゆることを
地表(地べた)の位置から
見る。
という位置です。
そして
人間に起きる物語=現象を
軸にして
それは
具体的な物語でもあるが
そこからさらに
それを抽象化して
物語の奥に在るものを
サーチし
照らし出してゆく。
その極めて
抽象化されたものを
観客は
その感覚と印象と直感で
それぞれが
読み取っていく。
だから
この映画を見る側の
私達も
漠然としてはあるが
確かな物を
受けとり
考えずには
いられないのです。
そのためには
人間のデッサンが
しっかりと描かけていなければ
ならないし、
その骨組みに対する
作家の
思索がしっかりと
為されてなければ
ならない。
そういう中で
見えてきたのが
人間の意識とはなにか?
という
問題です。
つまり
存在を規定してしまう
意識についての
考察を
しなくてはいられなくなる
映画です。
そして
映画から見えてくるのは
指定席を持たず
指定席から外れている
ジョンドゥとコンジュの方が
極めて
正常に
正直に
生きており
逆に指定席をもつ人間は
その指定席を
失うことを
恐れ
市民社会のフレームの文脈(コンテクスト)に
存在と精神までが
絡み取られている。
そして
「ペパーミントキャンディー」の
キム・ヨンホのように
過去にいきるのではなく
ジョンドゥとコンジュは
確実に
<今>を生きています。
さらに
次をも
生きようとしている。
そこには
だれにも
認知されなくとも
しかし
自分が自分を肯定できている
強さがある。
つまりジョンドゥとコンジュには
明日があるのですね。
※ 映画をご覧になった方は
ジョンドゥとコンジュが
あれで終わりになるとは
思われなかったのでは
ないですか?
だからこそ
ジョンドゥは
刑務所に入る前に
コンジュのために
タペストリーに描かれている
「オアシス」に写る
木の影を
取り除こうとして
コンジュのアパートの傍の木の枝を
全部切り取ってしまう。
もう生き生きと
セイセイと
切ってしまいます。
つまり
コンジュを
脅かすその影を
彼が
自分の手で
取り除くのですよ。
これは愛の告白でも
あります。
そしてジョンドゥは刑務所に
入るでしょう。
しかし
そんなことには
めげないでしょ
きっと!
コンジュも
せっせと
何もなかったように
部屋を
お掃除している。
きっとこの二人は
結ばれるでしょう。
「ペパーミントキャンディー」で
過去に生きる人間の精神を
構造化した
イ・チャンドンは
キム・ヨンホを
追いつめた
自己否定と自己蔑視の
シャドウ世界を
この「オアシス」では
追い払います。
逆に
シャドウ世界に
閉じ込められようとした
ジョンドゥとコンジュは
自分で
その扉を開いて
光を入れ
そして
あっさりと
人間の原罪的な桎梏を
乗り越えていきます。
だからジョンドゥは
コンジュを
車椅子にのせて
どんどん
外へと連れ出します。
人の眼など
眼中にありません!!
自分の母親の祝いの席へも
連れて行き
そこでの
記念写真のなかへさえも
入ろうとします。
なんて
逞しく
すてきなのでしょう!!
この二人に見えている
お互いは
世俗的な偏見や
序列的な価値判断などは
入る余地がない
純粋な姿です。
最後に
この
「オアシス」では
繋がりということも
ひとつのテーマですが
その繋がりということが
「オアシス」ではまだ
個々の人間の内部世界の繋がり
すなわち
ジョンドゥとコンジュの繋がりの中に
止まっているように
思います。
しかし
この次の作品
「シークレット・サンシャイン」では
人間の個々の不連続な内面世界の
連結ということが
<今>を共時に生きる精神の繋りとして
あること。
それは
どういう事であるかを
イチャンドンが形にしてみせています。
そしてそれは
人間の全体的に通底する
存在の構造として人間すべての
広がりの中に
あるのだということが
告げられていきます。
勿論それは
具体的な個の世界から
波及されて
抽象化されていく感情と精神の
繋がりであり
眼には見えません。
それが
なにかであるかが
最後の「ポエトリー・アグネス」までへと
追及され
昇華されていきます。
素晴らしいね。
ここまで人間を追求し
確信していくためには
想像をこえる
学究的追及と
体験の相対化
そして
それらすべてを射程に入れながら
考察を重ねるということが
イ・チャンドン氏のなかで
為されたと
思います。
さらに
前述したように
イチャンドンの肝というか
精神が
定点に座ったからだと
私は思います。
定点に至ったからこそ
自己を垂直におろしていく
縦軸と
横いっぱいに広がる学問、科学の実証世界とが
横軸として
彼の座標をつくりだしたのだと
思います。
その座標からさらに
立体化された思想が
映画へと三次元化されていく!
優れた作家たちは皆
この
定点カメラを
持っています。
人間の存在を
定点に於いてサーチする。
その定点を獲得するということが
いかに困難で難しいかということは
常に
その人間自身が
自分とは
自分が生きるとは
という
問いかけの中を
生きなければ
手に入れることが
できません。
その純度が狂うと
すべてが狂ってゆきますからね。
その中で
では
どういう風に
人間の意識における
抽象化された
繋がりを
イ・チャンドンが描いて行ったかを
次の
「シークレット・サンシャイン」で
書いてみます。
では
また。
映画から自由奔放に読み取ってみよう
第2回「オアシス」映画監督イ・チャンドンの世界
!
第一回「こわれゆく女」より
映画監督 ジョン・カサヴェテスの世界。
コンジュのように初々しいね!