イ・チャンドンの世界から ・ポエトリーアグネスよりその2.映画が死に行くとは。 |
詩のような
世界である。
ということを
どのようにお伝えしたらいいか、
難しいなあ~!
そうだ、
ここからお話をしましょうか。
私達の
脳の中には
文章があるわけではないのですよ。
脳の中には
わたしたちが
生きながら
集めた
もう
たくさんのエレメントが
記憶されていて
それは
脳の海の中に
ひとつひとつが
自立して
プカプカ
浮かんでいるような
状態です。
それらはみんな
並列であり、等しく
そこには
序列や
格差や
価値づけなどは
ありません。
みな平等です。
それを
脳は
自分の<志向性>に基づいて
取捨し
編集して
一瞬のうちに
自分に必要な
文章にしてしまうのです。
だから
ものすごく頭を柔らかくして
考えてほいしのですが
その人間の考える=考察によって
人間は
脳の中のエレメントを
様々に
連結できる
可能性をもっている。
ということです。
そういう
自分の脳と体を
持って
生きている
ということを
素晴らしい!
と
自覚して
大事に
してほしいのです。
きっと
イ・チャンドン氏も
そう思いながら
「ポエトリー・アグネス」を
創ったと
思います。
脳は
そういう
ベースのなかから
脳の
<自立的な運動>で
言葉を
選び
編集していくのですが
文章にするには
そこに
整合性が必要になります。
つまり
始まりと
終わりがあるからです。
だから
考察により
言葉を明瞭に
文章化して
意識することは
いかに
・対象を掘り下げたり
・その本質に迫って
・・自分に説明がつくか
という
事では
とても有効ですが
しかし
その反面
そういう風に
思いこんでしまうと
そこで
物事は
限定されてしまいます。
※その限定を思いこんで
固定してしまうと
そこで
その人間の自我がそれに
捉われてしまい心の渋滞が
起きてきます。
だから人間は苦しむのですね。
しかし
詩は
たとえば
<風>・・・と
書いただけでも
その言葉から
様々に
人は連想し
また
自分の中のエレメンツと
<風>を
連結させることが
出来るでしょ。
つまり
そこには
エレメントを自由に組み合わせて
感じ取った
脳の
クオリア(質感)の世界が
自由に
自在に
行きかい
交流し
無限と言えるほどの
多様性があるのです。
詩には
そういう可能性があり
空間性や
感覚及び感性の自由
知覚の自由があり
それを
どういう風に
組み合わせて
自分が理解し
自分のものと
していくかは
全く
その人に託されています。
つまり
そういう
詩の柔軟性は
すなわち
脳の柔軟性であり
詩の可能性は
脳の可能性でも
あるのです。
そして
様々なエレメントが
外からの刺激を受けて
自我を基軸に
相対化しながら
自分の
こころという
現象を
創りだして
いるのです。
それは
詩だけでなく
映画という映像も
同じように
様々に
エレメントを
組み合わて
物語を
創り
それを
見た人間は
自由に連想し
自由に理解し
そして
さらに
自分と映像の接点を
探りながら
作家たちのメッセージを
自分のエレメントに重ねて
考察しようとします。
イ・チャンドン氏が書かれた
「それでも人は詩を書き
読み続ける。」
というように
私たちはの頭の中は
常に
詩を書き
詩のように
現実を
自由自在に
感じ
そして
その詩のなかから
自分に必要な
本質を
みようと
していると
同じような
現象が
あり
その中で
生きていると
私は
思います。
そして
人間が人間たる所以は
大脳の新皮質の獲得により
・言葉の発明
・考えるという脳の働きの獲得したことです。
それによって
・意識がうまれてきたの
ですから
自分の
意識を
どのように
使いこなすか
ということが
とても
大切なのです。
意識とは
脳の中の
エレメントが連結して
出来てきます。
それはその人間の志向性によって
自分を相対化し
自分以外の世界との関係をも
相対化して
自分が生き延びてゆくために
自分の文脈(コンテクスト)を設定していく。
ということです。
自分の文脈とは
自分固有の世界です。
無意識は脳の回路を
直線的に走り
体と繋がりますが
意識はエレメンとを連結し
ループ状に設定し
それを<巡ら>せながら
考察を深めていきます。
だから頭の中で
意識が巡るり
考えているのですね。
そして
なぜ
意識が生まれたかというと
これは私の独断の考えですが、
自分および
自分以外の事象の<本質>を
理解することにより
自分の命の保全と持続(生き延びる)を
はかろうとしたからではないでしょうか。
そのために
意識による作業
たとえば
学問や、思想や文学や
宗教などが生まれてきて
脳はどんどん進化し
複雑なことに
対応しようとしたのだと
思います。
なぜ本質を究めようとしたかというと
極めて
単純に説明すると
人間が自分の命を保全するために
動物的本能的世界から脱し
さらに
自分の中に起きる不明なこと
解明するために
また
対外世界で起きることの
不明なものについて
本質を見極めて
安心し
生命が安定するよう
はかろうとしているのだと
私は思っています。
そうすることにより
体が
安定し
生命力へかかる圧力のストレスが
解消されてゆく。
だから
それまでの
無意識と体=存在に
起きる
さまざまな未解決のこと、
不明なことを
意識を持つことで
止揚(解決)したのではないかと
思います。
だから
私たちは
脳と体の両方で
情報を収取し
その中から
自分に必要なものを
特化して
考察して
意識化する
という
無意識と
意識の
二重構造化が
生まれたのでは
ないかと
思います。
私達の脳の中は
豊穣な
無意識の海に
氷山のように
意識が浮かび
その
意識を指令搭に
して
生き延びていると
私は考えます。
では
イ・チャンドン氏はなぜ
『詩が死にかけている時代』
さらに
『暗澹たる未来が前にあるとき
詩をかくということに
どれだけ意味があるのか
私はそれを問いかけたい。』
そして
『映画が死にいく今
映画と撮るということに
どういう意味があるのか』
と
言うのでしょうか。
それは
私は現代の
情報化社会に
そのことの原因が
あると
思います。
実は
私も今のインターネット社会の到来を
歓びました。
なぜなら
人間がなぜ
ヒエラルヒーの
権力社会、
階級社会をつくるか
というと
極めて
単純化して
いうと
これまでの人類史の歴史は
情報を独占した者が
富を得、
権力を手にし、
さらに
階級社会を
組織すると
考えていたからです。
しかし
階級社会が崩壊し
階層社会というのも
破綻して行く中で
誰もが
自由に
情報を得ることができる
インターネット社会が
生まれました。
そこには
コンピューターを駆使して
世界規模の
情報ネッワーク社会が生まれ
私たちは
いつでも
自由に
必要な情報を
手に入れ
自分に役立てることができる。
と
もう
とても喜びました。
しかし
いま
私はそういう
自分の認識の甘さを
反省しています。
たしかに
そういう
素晴らしい社会でも
あることは
その通りです。
でも
一方では
安易に情報が手に入るということが
人間が人間たる所以である
・自分で考える
・自分で掘り下げていく
・自分で創り上げていく
ということが
なおざりにされていく社会になる
ということに
気づき始めたからです。
情報の収集と獲得が
容易になるということは
情報の質が下がり
社会の中に
安直な情報や
分りやすい情報
さらに
まちがった情報も
はびこる可能性も
あります。
逆に難しい情報は
敬遠され
一人一人が
自分で
考えるということが
希薄になっていく社会になる
危険性が
ある。
人間が
体を使って
考えるということを
放棄する
或いは
省いてしまう社会へと
なりつつあることです。
人間が自分が得た情報を生かすためには
その情報の本質について
考える必要があります。
考えるという行為は
脳と体を一本にして
エネルギーを
集中して
脳の働きを高める
ということです。
人間は
考えながら
進化してきたのです。
つまり
昨日
「ポエトリー・アグネス」のことを
書こうとした時
私の頭の中に降りてきた
「人間が壊れかかっている。
なぜなら
意識と存在の乖離が激しく
進行しているからだ。」
ということが
現実味を
帯びてきたからです。
人間が
自分で考えない社会とは
極端にいうと
人間の自分放棄です。
自分の頭の中には
自分が
自分のために集めた
たくさんのエレメントがあり
さらに
自分の意識で集め
それを
文脈化した
情報があるのに
それには
気づかず
その自分を
掘って行く努力
自分の中の知力や
知性を深め
磨く努力をしなくても
インターネットで
他人がやったものを
クリックして
自分に貼り付けて
なんだか
分ったような
錯覚に陥ることが
とても怖いと
私は思います。
知識は
自分が掘り下げていく中で
やっと自分のものになります。
知識が自分のものになるには
いかに
自分の中で
<体験する>かということが
重要なのです。
自分の体験(直面すること)を
放棄して
引き籠り
他人との面倒なことや
厄介な
確執から逃げてしまい
自分の頭の中を
バーチャルな人間観と
他人の知識で
埋めている人間が
溢れてしまう可能性が
あります。
つまり
自分で体験して
考えない人間が
氾濫する!
人間は
自分で考えないと
脳の中は
複雑に
発達しません。
逆に
情報と感情が
どんどん短絡して
しまいます。
◎心が壊れてゆくというのは
人間の
意識の層が薄くなり
複雑に物事を考えられずに
直ぐ
短絡してしまう。
そういう風に
人間が
軽薄になることだと
思います。
そして
自分を放棄してしまうと
それは
自分の中の根底にながれている
他者と自分との
連続性が
消えてしまうことにも
なります。
苦しんだり
もがいたり
そして
分らないものを
分ろうと
努力したり
訳が分からないことや
新しいことに
好奇心が湧いて
チャレンジする。
そして
時には
死ぬほど
考えるからこそ
そこに
個と個の
不連続な
連続性が
生まれるのです。
だから
何となく
詩のことが
分り
映画のことが
わかるのです。
そしてね
何となくわかったことは
自分が意識したり
自覚していなくても
脳がそれを
知らないうちに
追及してくれます。
つまり
心に留まったことは
脳が
なんとか
答えを出そうとしてくれるのですよ。
そこに脳の志向性が
働き
自分の中を
整合化しようと
してくれるのです。
あなたにも
そういう体験が
あるでしょ。
それには
まず
自分という
柱が
そこにないとねえ~!
情報は
それを
鑑定、識別することができないと
情報を
使いこなすことが
出来ません。
しかし
インターネット社会は
考えることをしなくても
必要なことを
クリックして
探しだし
自分に貼り付けて
あたかも
分ったつもりになれる
社会です。
人間が
自分が得た情報を生かすためには
その情報の本質について
考える必要があります。
考えるという行為は
脳と体を一本にして
エネルギーを
集中して
脳の働きを高める
ということです。
人間は
考えながら
進化してきたのです。
しかし
困ったことに
現代社会は
既成の意識社会の中にいる限り
それを
逸脱しない限り
考えなくても
生きていける社会です。
思いこみのなかでも
それなりに
生きれる
社会です。
そして
考えるためには
自分という機軸を
しっかり
立てていないと
考える
ということが
機能しません。
自分という機軸を
しっかり立てるためには
自分という人間の
内容についての
考察が
必要です。
つまり
自分を相対化し
客観的に眺めて
考える。
という
ことが
必要です。
つまり
考えるためには
すでに
考えることができる自分という存在が
そこに成立してていなければ
ならない。
すでに考えることができる自分とは
自分が何かに直面して
そこに
考える必要がおきるから
そういう自分が設定できてくるのです。
なんだか
すごくややこしくなってしまいましたが。
実は
この直面するということを
しなくてもすむ
というのが
簡単に情報が手に入る
インターネット社会です。
そこには
他人が考えてくれた
知識や情報が
山にようにあり
タダで手に入るのですから!
しかし
人間は
パスカルの言うように
「考える葦」なのです。
考えれば考えるほど
そこには
深さや幅や広さ
そして
鋭さが
できてきます。
つまり脳の神経が
鍛えられ
また
複雑なことにも
対応できる
脳の回路が
できてくるからです。
さて
随分話が広がりましたが
最後に
いつもように
いつも
私が言い続けていることを
書きます。
物質も
事象も
全ての現象の奥には
複雑に錯綜し
さらに重層に
積みあげられた
本質というものが
あります。
その本質を知る、
或いは
向き合うためには
人間は
考えなければ
ならない。
その考えるという行為にこそ
自分の中の
詩的世界を
駆使して
ありとあらゆるエレメンツと
それを組合わせて編集する能力を
総動員して
そこに直観を投入して
創造性を
発揮していくのです。
しかし
考えることもなく
物事を
掘り下げることもなく
ただ情報を
自分に張り付ける人間は
次第に
詩の世界も
映画の世界すら
理解することも
向き合うことも
できなくなるかもしれません。
自分の直観と思考力を
はたらかせて
300頁の本を読み
難解な世界に向き合うことや
2時間の映像のなから
何かを
学び取ろうということも
もう厄介で
しなくなる
人間達の未来は
イ・チャンドン氏のいうように
暗澹たるものがあります。
そして
映画は死んでしまうかもしれません。
情報の中に埋没して
情報に依存する社会が来たとき
もう
自分というものは
不用に
なるのでしょうか?
いいえ
違います
と
私はいいます。
それは
情報を
鑑定することができず
情報を
使いこなすことが
出来ない
人間は
そうなるかもしれません。
情報に依存する人間も
同じです。
しかし
山ほどある情報から
一本の
金の鉱脈を
自分で
自分で見つけだそうとする人間は
どうしたら
いいか。
人間は
自分の中を
一本に集中し
ありとあらゆる能力を
総動員し
自分の直感をつかい
それを
掘り当てていくのですよ。
冒頭にも書きましたが
人間が生きる
ということは
自分の中に
膨大なエレメンツを
現実に直面しては
記憶していくことでも
あります。
要は
自分のそのエレメントを
どのように
使いこなしていくかです。
言葉を
変えると
いかに
自分というものを
フルに
使いこなせるか
ということです。
私はある時から
自分の頭に考え浮かぶことを
すべて
肯定することにしました。
それから
言葉が
天から降ってくるように
なりました。
自分の中のすべてを
信じるのですよ。
自分が直感したことを
そのまま
信じるのですよ。
どうぞ
やってごらんなさい!
どんどん自分が考えていることが
当たるから!
そのためには
自分がどう生きるかを
しっかり考え
よけいなことに
心を
煩わさない!
いつも自分の中が
すぐ
集中できる
脳と体の状態の
自分に
なることです。
それには
まずは
自分の
全肯定からですぞ!
たとえば
昨日のことですが
このところ
連日
次回対談予定の
ダルデンヌ兄弟について
ぼんやり考えていたら
ある言葉が
降ってきました。
でも
その言葉になにか根拠が
あるわけでは
ありません。
なんとなく
そう思ったのです。
そうして昨日の午後
ダルデンヌ監督の映画で
まだ見ていない作品を
見ましたら
驚いたことに
その
降って来た言葉通りの
映画でした。
つまり
私は自覚をしていないし
特別そこに神経を
使ったわけでもないのに
自然にというか
ちゃんと
と
いうか
その映画の
本質的な事を
見ていたのですね
人間は
見ているのです。
或いは
見えているのです。
そのことも
このシリーズで
書きましたね。
しかし
自分を信じきれない人間は
そういう自分を
否定してしまいます。
或いは
ブレーキを
掛けてしまう。
そういう人間は
逆に
他人の世界ばかりを
信じてしまいます。
だから
他人の情報を見て
そっちのほうを
是にしてしまうのですよ。
・人間が壊れる
・人間が詩の世界を失う
・映画が死に行くとは
人間が
自分を信頼し
自分を駆使して
なまなましく
生きる
という
本来の動物としての
生々しい体と
人間が人間たる所以となった
脳の思考力および
志向性を
失うということだと
私は思います。
どうぞ
たった一個の
小さくて
危うくて
朧げない自分ですが
その自分が
ここに
存在するからこそ
世界は
不連続に
連続して
成立しているのです。
そのことが
いかに
大切であるか
その自分の存在が
いかに
かけがえのないものであるかを
自覚してください。
全ては
そこからしか
始まりません。
今回
素晴らしい
イ・チャンドンの世界に
繋がることが
出来ました。
でも
もう
頭がパンクするほど
考えました。
では
次回の
ダルデンヌ兄弟の映画についても
どうぞ
一緒に
考えましょう!
収録は12月末の予定ですから
来年早々に
また
書けると
思います。
皆様
お疲れさまでした。
映画から自由奔放に読み取ってみよう
第2回「オアシス」映画監督イ・チャンドンの世界
!
なっただよン!
本当に本当にありがとうございます としかいいようがないぐらい伝心柱さんの言葉に救われ自分自身と闘う覚悟をいつもいただきます(わかっていてもへこたれる事もあるんですけどね^_^;)こらからもお身体に気をつけて 下さい 私も頑張って生きます!
嬉しいです。素敵なブログですね。