いいとこ半分。悪いとこ半分で、ちょうどいい! |
それは
いい子ちゃんや
優等生になれというのでは
ありませんよ。
ドンナな人間も
半分は善でも
残り半分は
悪とまではいかなくとも
汚れた心や
嫉妬やねたみや
さらに
ズルイこころが
働くものです。
心の汚れていない人間なんていません。
逆に
心がきれいすぎる人間こそ
その無意識に
汚れがあるから
表面意識では
善人面をしようとするのです。
はたまた
余りにも綺麗すぎる心には
精神的な危機が潜んでいます。
いろいろあるけれど
最終的には
人間は善だよ・・・って
いうことです。
面白いことに
宮沢賢治が
死ぬ間際に
さらに手を入れて
推敲したのが
・風の又三郎」、
・「銀河鉄道の夜」、
・「セロ弾きのゴーシュ」
です。
この三作品は
賢治の姿そのものです。
つまり
一般的に賢治の姿と言われている
「グスこーブドリ」では
ない・・・と
いうところに
賢治の本心が
見えてきます。
風の又三郎は、
都会からきた少年と
地元の少年たちの素朴な
遊びと交流があり
そこには
少年賢治の初々しい姿があります。
銀河鉄道の夜は
賢治が最後に託した
彼の宇宙へのロマンと希望と
彼が決意した
悟りの自分です。
そして
「セロ弾きのゴーシュ」こそ
賢治の真骨頂で
彼のチャイルドが
大暴れします。
ユーモアたっぷりで
夜ごと訪ねてくる動物たちを
からかったり
手玉に取ったり
時に意地悪をしたりと
もう自由奔放で
愉快な
賢治ワールドです。
つまり
賢治の本質は
グスコーブドリのような
自己犠牲なんかでは
ないのですね。
人間は
いいとこ半分
悪いとこ半分で
それで
ちょうどいいのです。
でも
人間の本質は
善だと
私は思います。
どこの世界に
悪いことをしてやろうとおもって
生まれてくる赤ん坊が
いるでしょうか。
全ての赤ん坊が善であるように
人間は
そこに出発点があるのです。
賢治の本質は
かしこまっている賢治ではありません。
自由にいきいきと
そして
ときに
ニヒルで
冷酷な
だけど
繊細で優しい。
人間とは
そういうものだと
思いますよ。
前回お約束した
どうして
不安や
恐れが湧くのか
については
もう少し
後で
書かせていただきます。
とりあえず
今日は
善悪取り混ぜて
人間は
生きているということを
お伝えしたかったので・・・・
ネ!