素のままの相手を抱きしめる |
以前書いたものですが
掲載します。
これはいずれ本にしようと思い
今推敲しているものの一部分です。
〇 素のままの相手を抱きしめる。
そのひとの素の姿と向き合うことがいかにむずかしいか。
たとえ夫婦でも親子でも自分の期待や願いや、
コンプレックスの裏返しの権威や価値付けなどを、
相手にかぶせているから、それはは多いどころか、
そういう人間だらけだと私は思う。
だからその人間の素の姿が現れた時にトラブルがおきてしまう。
なぜならそれは、
自分が相手に対して抱いているイメージとは
ことなる想定外の姿だから、
なかなか受け入れらないからです。
特に夫婦は恋愛という自分の憧れや欲望を膨張させ、
それが叶うかのような錯覚で相手をみているから、
現実で相手の人格の貧相さや素行に問題があった時には、
イメージはどんどん落下していく。
親子でも親が自分の欲望やコンプレックスが裏返った期待を子供に課してしまうと、
子供は本当に真摯に親の期待に添おうと頑張る。
ほんとに子供はけなげに頑張るから、
親はその子が自分の期待通りの力量があると思い込んでしまい、
実は子供がアップアップして爪先立ちになっていることや、
もう限界だと出して来るサインを見逃してしまう。
トラブルが起きる・・・ということは
ほんとうは自分を見つめるおおきなチャンスで、
逆に相手の落ちた偶像の向こうに有る自分の真実に、
気づくことができる人生の転機でもある。
自分の内面に有る歪みやコンプレックスを検証し、
自分のゆがみに気づいて叩きなおし、
そこにある相手の素の姿、
ありのままの姿をうけいれることができるかどうか。
あるいは逆に
相手との決定的な世界観の違いを見つけることが、
自分の立ち位置、
等身大の自分をしっかりと認識できるかもしれない。
つまり、相手とのおおいなる違いを発見し
見切りをつけることができる。
自分とは生きるフィールドが違うということに気づく。
それは生きるうえでとても重要なことです。
人間は愛情という、
恐ろしく他人への期待を膨張させた感情を持っている。
本当はそれを望むことは、
相手の生命エネルギーを自分のために奪い、
使うことでもあるのに、
そういう自分のエゴには思いが至らない。
キリスト教だって、
日本人はマリア崇拝に偏り、
母性愛や神の愛のほうにシフトしているが
ほんとうは神様は残酷で厳しいのですぞ。
在りのままの相手は、
自分が思いこんでいたよりずっと愚かで貧相で、
自分が絶望するほど、がっかりさせる、
小さく、弱く、能力も低いダメ人間。
けれどもそれでも一緒に生きることができるか。
でもねえー、
そういう素の相手と向き合ってこなかったアンタは何なのさ!
と私は度々思いますよ。
勝手なイメージや期待を張りつけられて
いつも膨張した自分ばかりを期待されて、
外套を着こんで、
手袋をはめた自分ばかりを相手が愛する・・という
本人にしたらなんともやりきれない愛され方だ。
素のままの自分だと愛されないありのままの自分だと愛されない。
そういう悲しみや嘆きに目を向けたことがあるのかい、
そういう相手を愛したことがあるのかい、
とも思います。
まあトラブルというのはたいがい
そういう自分の思い込みの世界観がゆすぶられて起きてくる。
相手の化けの皮がはげたということは
自分の化けの皮がはがれたということでもある。
すごいねえー強烈です私は(苦笑。)
でもねえ化けの皮を剥がして
素の自分を生きることは自分でもびっくりするくらい気持ちがいい。
そして自分でも思いもかけない新しい自分の才能がでてくるかもしれないです。
なぜってそれは自分の子供時代の自分の感性、
抑圧して溜め込んでいた自分独特の感受性が、
解放されてくるからです。
つまり依存をやめて親や相手や社会や集団、
組織はてには国家からも解放されて自分のみになったとき、
自分をぐるぐる巻きにしている鎖が解けたとき、
自分の中にもともとあった自分らしい生命力が溢れてくると言うわけです。
人間の脳は個絶しており人間の存在とは、基本は孤独でときに孤立です。
けれど、だからこそ人間の脳のプログラムには
自力で生きる能力がマザーデーターにあり、
脳は一瞬にして過去、現在、未来を編集し今を生きようと導く。
それが純粋であればあるほど、命は爽快にかがやく。
外套を分厚く着こんで、
自分を装飾したり、擬装したりすればするほど、
この命の水が爽快に喉を通っていく味は一生味わえない。
まあ泥水ばかり飲んで生きるのものいいやねえー。
それもそのひとが選択した自分生き様だとおもいます。
※追、今読みかえしてみると。今日のブログは強烈ですね~。
・・・自分ながら・・・笑い。
でもね、先日眠れないままにズーッと考えていたら、
明けがた、ふっと、素の自分を生きることが許されていない、
こういう愛され方をしている有る人の悲しみがジーンと伝わってきた。
それも半分はもうとうとしながらなんだけど。
忘れないうちに言葉にして・・・と思い、 書きました。
誰でもそのまんまの自分を愛されたら、
どんなに嬉しいか、
生き易いかと思います。
ただそのためには、
気づきと自覚が必要です。
人間として、高い水準の意識になるような努力が必要だと 思います。
ベルイマンはこの扉を
開けようとしたのではないかと
私は思います。