自立とは?執着とは? |
そして社会で生きていくには
1タス1が2になるような
単純でストレートには
なかなかいきません。
表があれば
裏があり
ものごとは
斜めからヤリが降ってきて
足元からも妖怪が
襲ってきて
いろんな紆余曲折を孕みながらしか
進みません。
そういう中で
自立していくというもの
大変なことであり
それも
長い時間をかけながら
一段ずつ階段を上るしかありません。
人間は迷いながらしか
生きれないのです。
いろんな経験を経て
挫折や失敗の中を
かいくぐりながら
時には
墜落したりしては
気を取り直し
考えこんでは
その階段を上るのです。
自立の最初は
◎自立しよう・・と決心することです。
直ぐに行動に結びつかなくてもいいです。
自立しようと決心することです。
しかし
自立しようとしても
自分の感情がなかなか
ついてこれません。
その感情も自分で相対化しないと
いつまでも
感情に取り込まれて
そういう行動をしてしまいます。
以前も書きましたが
感情は
言葉に短絡していきます。
だからこそ
私達は
言葉ではなく
文脈を
検証しないと
ダメなのですよ。
そして
その感情が湧き起る
根っこのところには
自分の執着があります。
では
執着する感情とは
とは
いったいなのなのでしょうか?
むずかしいね~。
私は執着とは
最終的には
自己保全の感情で
・自分がどのようになるか?
或いは
・どのように他者から扱われるか?
ということからくる
危機意識が
反転して
・執着になるのではないかと
思っています。
つまり
ことと次第によっては
自分が
・何かを失うかもしれない。
事と次第によっては
自分が
・みじめな敗北感を
・味わうかもしれない
という
・自分の足場切り崩されてしまう
或いは
自分が
・崩落してしまう
という危機感が働いて
執着という
◎<しがみつき>をおこすのではないかと
思っています。
そういう
脳のシュミレーションの結果の
自己防衛では
ないかと
思うのです。
では執着が取れるというのは
どういうことであるか?
或いは
執着しない
というのは
どういう場合か?
それは
自分と言う者が
・しっかりと安定しえ
・脳と体の統制が取れ
・自分の自我が
・他者から
・脅かされていない時
人間は
執着をしません。
つまり
他者と自分との
<関係>でおきる
現象が
◎<自分主導>で起きている時
人間は
安心し
心理的余裕を持ち
そこには
危機がありませんから
執着する必要がないのです。
もう
お分かりですね。
つまり
自立するということは
すべてが
◎<自分主導>の世界の中で生きる!
ということです。
だからこそ
自分に
・必要なもの以外には
・執着をしないし
自分にとって
・重要でないもの
自分がその気になれば
・いつでも
・手に入るものには
執着などする必要が
ないのですね。
しかし
・<他者主導>の中に生き
・他者に翻弄され
自分が脅かされるとき
つまり
自分の中の何かが
・<奪われる>と感じたときは
・執着の感情が発動してきます。
自分の存在が
ゆすぶられて
危うくなるからです。
人生を
・自分の手で切り開く
という
・意志と覚悟がある人間は
・動じないのです。
すべてが
◎自分を基軸にしてあるからです。
また
もし相手が
不倫や不誠実なことをしても
それは
・相手自身の生き方の問題であると
・自分と切り離すことができます。
さらに
そのことが
・自分の人生において
・不毛であり
・消耗であり
・受け入れる必要のないことなら
もうそこで
自分に
・ふさわしくない相手など
・捨ててしまうことができます。
私はもし
うちの父ちゃんが
不倫をしたなら
さっさと彼を捨ててしまいます・・・笑!
そこには
・自分の誠実さに自信があり
・自分の存在にたいする
・尊厳を
・私自身が持っているからです。
つまり
◎私の値打ちをわからない者は
去れ!
ですね。
私という存在は
押し寄せる波の前で
いつも
仁王様のように
立っている!
※ ・自分のことをわかってもらおうという甘え
・自分のことをわからせようとする傲慢が
自分を危機に追いやるのです。
まあ、普通の人は
こうまですっきりとは
いかないでしょうし
そこに
もし
相手との関係に
自分が学ぶべきものが
あるなら
それの関係を
どう
育てていくかでしょう。
執着というのも
そんなに簡単に捨てられるものでは
ありません。
私だって
自分の執着を前に
・自分の執着の感情の底には
・なにがあるかを
・何度も
・なんども
・考えては
・分析し
そして
・解決してきました。(捨ててきたとも言う)
時間をかけて
・執着の正体を見つけ出しては
・捨てるという作業を
・何十年もやってきて
今
やっと
そういう境地になっているのです。
自分がしっかり
・大地に根をはやし
・自分が動じなくなる。
・自分そのままを
・そのまま
・受け入れて
・それで良し!
まあ、
そういう自立の第一歩が
自立しよう・・・という
決心だということです。
<告知>
このたび本を書きました。
「拝啓宮沢賢治さま」不安の中のあなたへ
田下啓子(denshinbashira)著
(彩流社 1800円+税)
岡田愛さんという
うら若き女性の
パステル画家さんにお願いしました。
裏表紙の花は
賢治が大好きな
マグノリアの花です。
宮沢賢治も
最後は
「空はれわたる!」という
自立を果たしたと
思います。
今日、出版社から連絡が来て
11日(水曜日)に書店に搬入予定なので
発売はおそら週末からだろうと
いう事です。
どうぞ
皆さま
賢治が
・ほんとうはどういう人間であったか
そして彼は
・なにを勘違いし
・なにと
・戦ったか
を
読みとっていただければと
思います。
では
どうぞよろしく
お願いいたします。
●非公開のコメントは
お受けできません。
ほんとうに頑張りました。彼を調べれば調べるほど、いかに彼が私たちと同じように迷いながらいきていたか、また逆に調べれば調べるほど、とても面白い、愉快な人で、友達にしたらきっと楽しい人であったと思いました。
今朝、過去の自分の夢を見ました。母と顔を合わせないために家を出て、行くあてもなく街をさまよったり駅で電車を待ったりしていました。ガチガチに周りを警戒して寒々とした気持ちで石のようでした。荷物を取りに家に帰ったら母は畑仕事をしていて、その背中から警戒心をとげのように発してました。ああこの人も石なんだなと思って、そのまま出発したところで目が覚めました。
久しぶりに、昔の感覚を思い出しました。そしてそういう自分と地続きに今の自分があるのだから、それは「時間がかかる」んですよね。自分の奥にはまだ動けないでいる自分がいるのかもしれないと思いました。
そしてそういう自分を解いていきたいとも。ブレーキも、外そうと決心すれば、外れていくものですか?
そして宮沢賢治は、あんなにすごい作品をかいても、迷いがあったんですね。そのことが、とても不思議で、でもそこに大切な鍵があるような気がします。
伝心柱さんの記事を読んでから、漱石も賢治もすばらしい仕事を残していったけれど2人は何が違かったんだろう、そして何がそれぞれの価値だったんだろうということがぼんやりと心に残っていました。本の出版、楽しみにしております。
お答え頂いていたのにくもっておりました…。
それで、私は孤独なことや社会的価値を持たないことを気にして、そういう価値を上位において自分を見て、思考を立てようとしていたことに気がつきました。だから、不安がやまなかったんですね。
苦しんだことや悩んだことの先に今の自分がいて、それは結晶のような自分で、その発露が自分の思いや言葉や独特の癖や反応なんですよね。そういう自分の価値と対他における価値を見比べて、伝心柱さんの記事を読んでは見比べて、やっとどちらが本質で、実質なのかに気がつくことができました。
10年以上も、ずっと開けなかったことが、いつも心に引っかかっていたところが、やっと少し開けたようなきがします。
コメントをしていて、わたしはせっかちだなあと思いました。
そのときはそれが限界だと本気で思っているのですが、いつもその先はちゃんとあるじゃないと…。だからしばらく、今の気持ちを見守って過ごしていこうと思います。
伝心柱さんがずっと書き続けてこられたことの端緒にやっと触れられました。お返事を書いてくださって本当にありがとうございます。そしていつも書き続けてくださってありがとうございます。読むことで、私は心が整っていくように思います。
いただいたお返事、ずっと読み続けていきます。
◎苦しんだことや悩んだことの先に今の自分がいて、それは結晶のような自分で、その発露が自分の思いや言葉や独特の癖や反応なんですよね。そういう自分の価値と対他における価値を見比べて、伝心柱さんの記事を読んでは見比べて、やっとどちらが本質で、実質なのかに気がつくことができました。
↑
その通りです。
自分というかけがえのない、唯一の存在に対して、OKを出し続けること。決して他人と比較しないこと。自分の中にこそ、自分が身を削りながら獲得してきた真実と本質が積み重ねられています。そういう自分を信頼しだすとね、今度は脳が活性化してきて、そういう自分の中からどんどん自分がほしいものへの連鎖の反応をしてくれます。
だからまずは、徹底的に自分を肯定することです。そこに間違えがあっても、それはすぐ気づかせてくれますから
その時点でまた修正すればいいのですよ。まずは自分を振り返らすにOKを出し続けてください。