自分の中の他者たち・・・その2 |
本当は62歳ごろで終わりかな~と
思っていましたから
自分でいうのもナンですが
よく頑張って生きてきたな~と
思います。
これから先は
もうけモンで
積み残さないように
生きよ~っと!!
さて昨日の続きを書きましょう。
昨日は禁止令を参考に
人間は
生まれた瞬間から
自分の中に他者を取り込みながら
生きていると
書きました。
自分の中には
自分の自然性と他者との関係によって
自分の中に住み込んでしまった
他者の世界とが
平たくいうと
他人目線の自分とが
対立しながら共存しており
人間は瞬間的に自分世界(自分目線)と
他者世界(他人目線)をシャッフルさせながら
自分の行為、行動を決定していると
書きました。
そこには
他者からもたらされた
たくさんの禁止令があり
さらに
自分が直面して得たものではない
感覚や想念が
自分の自然性を
縛ってしまっていると
書きました。
だから
自分の自然性で動こうとしても
自分の中の他者がブレーキを
掛けたり
脅かしたりして
本来の自分が抑圧されてしまう。
自分をそのまま実現できない反動としての
・人間嫌いや
・他者に対する否定的感情や
・嫉妬や
・怒りがおきてしまう。
さらにそのブレーキが利きすぎて
・欝になってしまう。
自分の中にある他人と
自分の自然性との
ねじれが
いつもその人間を
生きにくくさせていると
書きました。
今日の本題は
なぜひとは
他人から愛されたがるか・・・?
なぜひとは
他人から
受け入れられたがるか・・・?
認められたがるか・・・?
です。
さて
もしかしたらここまで書いた
もう
わかり始めたかもしれませんね。
もう
ピンと来た人もいるかな!
どうして
自分が愛されると
うれしいか?
自分が承認されると
ほっとし
満たされるか・・・?
もう
わかりましたか、
人間は常に他人との間で
いきているために
自分ではなく
他人から
愛され
その存在を
肯定してもらえると
その対立軸が消えるのです。
だから
ほっとして
嬉しいのです。
嬉しいと同時に
自分の基盤がしっかりと
立ちます。
なぜ立つか・・・?
つまり
それは
自分の中にある他人との対立が
解消、解決されるからです。
自分の中の他者が消えて
自分一本になるからです。
自分の中の
他人から愛されることに対する
障害となるものが
愛されることを阻んでいる他人の目が
他人から愛されると
すっと
消えるのです。
それごらん
私は愛される人間なのよ!
とです。
その否定が消えるのです。
それが消え
自分が愛されたという事実が
実存として
残るのです。
他人から受け入れられたということも
同じです。
自分の中の他人との対立軸が消え
結果として
それまで自分を受け入れなかった
他人目線の自分が消えることで
自分が自分を受け入れることができた・・と
いうことです。
自己同一性(アイデンティティー)が
成立したと
いうことです。
わかるかな~?
だからこそ
人間は他人から愛されること求め
他人から承認されることを願い
それが
果たされると
それまで
自分のなかにあった
<他者目線での否定>が
取り外されて
自分が一本になり
立ってくるのです。
難しくいうとね
自分のなかの主体と客体とが
一つの連続性のなかで
存在できるということです。
一つの連続性とは
主観的にも
客観的にも
自分を
肯定できる
ということです。
しかし
問題は
実際の他人とは
自分の中に存在する他人を
投影した他人であると
いうことです。
つまり
他人とは
自分の中にある他人のイメージを
相手のなかに
当てはめて
他人を見ているということで
極端にいうと
ほんとうに
その他人が
自分のイメージしている他人と同じかどうかは
わ・か・ら・な・い。
ということです。
これが実は大きな問題点なのです。
だから
たとえ
相手に愛されたと思っていても
ほんとう愛されているかどうかは
その相手のほんとうのことが
わからない限り
わからないのです。
つまり
すべてのことは
自分が想定したイメージを
相手に当てはめているだけですから
実は
愛された・・・と思っても
それは錯覚で合ったり
自分が思っているよりも
はるかに
少ない愛であったりするのです。
まあ、
たいがいが
相手を幻想している場合が
多いかな~!
それは
裏切られてやっと
気づきます。
相手が自分のおもっていたのとは
違うのだと
気づくのです。
自分が勝ってに自分のイメージに合わせて
信じ込んでいたのだと
気づくのです。
でも気づかないひとたちも
勿論います。
そういう人たちは
自分の錯覚を棚にあげて
相手を悪く言う人たちで
こういう人たちの方が
多いかもしれませんね。
つまり
多くの人間は
自分の都合に合わせて
他人を勘違いしていきます。
だから
自分が愛されるというイメージと
相手が人を愛する…というイメージとが
よほど合致していないと
たいがいは、その擦れ違いの破れめが
表出してきます。
夫婦をはじめ
人間関係のトラブルの根は
実はここにあるのですね。
つまりね
結論を言っちゃうと
他人から
愛される・・・ということは
ない・・・とは言わないけれど
ほとんど錯覚で
至難の業なのです。
同様に
他人から認められるといこと
受け入れらえるということも
自分の中にイメージしたものを
他人の中に重ねてイメージしているだけの
ことです。
だから
ほんとうに認められているかどうかは
わからない!
認められたと
自分が錯覚して
安心する。
それほど
他人という大きな存在が
いつも
自分の中に
影をさしていることは
間違いないのですけれども。
人間が持つそういう
脳と心理の構造を知らない限り
人は
他者に愛を求め
自分が承認されるのを
求めて
彷徨うのです。
ハア~ッ!(大変だね~!)
では
どうしたら
自分が自分らしく
自己アイデンティティーを立てて
生きれるかというと
つまり
自己同一性を保てるかどいうと
それは
もう
このブログで口が酸っぱくなるほど
書いている
常に自分を
● 肯定すること。
● 自分を引っ掻かないこと(ディスカウントしないこと。)
しかないのです。
本当は
他人に愛されるとか
認められるということで
自分を立てるのでなく
自分で
自分を立てていくことをしないと
ダメなのです。
そういうふうに
他人を当てにしたり
他人に幻想を持つ限り
そんなものは
すぐ壊れていきます。
そうではなく
自分が自分を肯定し
自分が自分を認め、受け入れることしか
ないのですよ。
それには
●直面する。
●直面するということは
そこに
自分が思い込んでいるこ(主観)と
客観的な現実に
ズレがあることを
表しているのです。
だから
●直面したら
そこでしっかり
●考えて
自分の中の障害になっていること
自分の中にある対立(他人に思い込まされたこと)を
●解決していく。
●統合していく
或いは
●捨てていくしか
ないのです。
そういう風にして
いつも
自分と
自分の心が
●一致するように、生きる。
特に
言葉は
●自分の心と一致する言葉を
吐く。
ことが
とても大切なのです。
つまり
他人に愛されたいと思うなら
まず
自分を愛することです。
でも
それは
うぬぼれとは
違います。
(うぬぼれはコンプレックスの裏返った気分的なものです。)
自分のすべてを
赦し
自分に優しいまなざしを
向けることです。
他人に認められたいなら
まず
自分が
どんなことがあっても
自分を受けいれて
認めることです。
それは妥協ではありませんよ。
何があっても
自分を信頼し
自分に寄り添うということです。。
そして
自分の自我の中にある
対立に気づいたら
その対立を
取り除く。
さらに禁止令を
取っ払い
けっとばし
自分の自由にしてあげる。
自分の中に居座る他人に
自分を
譲らないのです。
人間が
どのように
世界を認知していくかは
他者を通してしかできない。
しかし
そこに
しっかりと
●自他の分離がなされていないと
自分の世界と
他人の世界と
ごっちゃに混同して
いきてしまうのですね。
そこらへんに
人間の限界と
苦悩があります。
次回は
人間は
その限界と
苦悩を
どのように統合し
止揚としたかを
書きます。
いわゆる
なぜ宗教が
生まれたか・・・といことです。
難しいけれど
頑張ってかきましょう。
しばらく前から読ませて頂いています。
最初は本当に理解できていなかったことが、最近になってだいぶわかってきました。
本当に自分次第なんだな、と。
いつも本質をわかりやすく教えて頂いてますこと、感謝しています。
お誕生日、おめでとうございます!!
祝福のたくさんある一年でありますように。
自分をしっかり立てて、自分が自分世界(人生)を創造していくことこそが大切です。それを理解していただけたら、私はとてもうれしいです。書く気概がうまれます。謝々!
楽しみしています。