本をくれた二人に贈ります。 |
思っていたことを
書きます。
真摯に書きます。
私はいつも良寛のように生きたいと
おもっている。
もう着の身、着のままの乞食坊主でいい
そういう風に生きれたら
どんなに嬉しいかと
思っています。
同じように
山頭火のように
最後は犬に施され
猫に施すという
心境の中で死んだ
山頭火です。
※ もう死期が近い山頭火の一切の
食べ物が無くなったとき
野良犬が餅をくわえてきて
山頭火の庵においてゆきます。
山頭火がそれを食べようとすると
野良猫がきました。
山頭火は、餅を半分猫に与えます。
良寛の生きざまも
山頭火のそれも
決してロマンではありません。
厳しい厳し孤高の世界です。
そして
そこまでに辿り着くには
まだまだ私は世俗的で
卑俗な存在です。
でも私の目の前には
いつも
この二人の僧が歩いている。
わたしのところには
私のブログを読んだ人々が
遠くは北海道から九州から
来られます。
私は、私のところまで
辿り着いた方
つまり
私を突き止めて会いたいと
いう方とだけ
カウンセリングをします。
しかしカウンセリングといっても
もうそれは
とっくにカウンセリングを逸脱しており
ただただ、出遭い、尋ねてきた方と私とが
全身全霊で向き合うということで
私は正直な自分を
その前に差し出すことだけに尽きる
と
思っています。
ですからそれは
私の人生の必然としての使命があり
カウンセリングを求めてきた方とお会いし、
何とか解決の出口を探すことは
私の学びでもあり、
そして共に今日を生きる喜びをも
その方々からギフトされます。
だから
一切の謝礼をいただきません。
しかし時に
私にとって心が曇ることが
ありました。
今日はそのことを
書きたいと思います。
これまでにカウンセリングをした方々の中で
お二人が
私に本をくれました。
私に本を送ってきた人と
私に本をギフトしてくれた
二人の人についてです。
このお二人のためにも
書こうと思います。
このお二人ともが
私によかれと思ってこそ
本をくれたのですが、
しかし
そのことで正直にいうと
私はすこし傷つき(ほんの少しだけですよ。)
※ これが大好きなアンパンや大福だったら
大喜びしたんですが・・・笑!
さらに
こういうことは
よくあることで
その扱いも
善意からでたことと
私は諦めなければならないと
自分に言い聞かせました。
このお二人に共通することは
二人ともが頭がよく
それぞれに知識と知性があり
さらに
二人ともがそこそこ
自分は<できる>という
自尊心を
無意識に持っていることでです。
キーワードは
<知識>です。
つまり
この二人ともが
<知識>を積めば
そこそこに
人間の事がわかるような
<錯覚>を
持っていることです。
そういうことで
私に対して
この本を読んだほうが
わたしのためになると思われて
その善意で
本をくれたのだと思います。
その時私は
その行為に
どうしていいかわからず
戸惑いました。
だから
それを受け取って
丁寧に読み
おひとりには
返事を書きました。
確かにその二つの本には
著者たちの誠実な私見と世界観があり
それに対しては
私なりに感慨を覚えたのも
本当です。
しかし
そこに書いてあることは
もうすでに
私がこのブログで
宮澤賢治の「インドラの綱」を
たとえに
一般の人々に向けて
何度も書いていることでもあり
また
カウンセリングの現場で起きる
いわゆる既知と既視的なものであり
さまざまな想定外に起きる
現場の臨場を
どのように解決するかなどとは
ほど遠いものです。
反対に私は
このブログをよむことで
その人が少しでも自力で
自己回復し
自分一人でも
立ち上がることができるように
と
懸命に分かりやすく
書いているのですが
それすら
理解してもらえていないと
いうことです。残念ですが。
むしろ
その本に書いてあるのは
いわゆる大概的な
一般的な理論に
さらに個人的な世界観
重ねてそれは
それでとても素晴らしいのですが。
しかし
しかしですよ、現実は
来談者(クライアント)との
厳しい現実に向き合うためには
自分を裸にして
さらしながら
全神経を集中させて話に聞き入り
その存在を手探りに確かめながら
相手の息吹と自分の息吹とが
どれだけお互いの中を
吹き抜けてゆくかです。
そういう相手への
溢れ出る息吹こそが
そういう愛こそが
いちばん大切なのだと
私は考えています。
だからその時は
私は常に
相手の事だけを思い
頭をフルに回転し、
脳内のデーターを
めぐらせながら
出口を探しあてていきます。
そして
カウンセリングを終えた後は
もうぐったりとして
頭も体も
不能状態になります。
月に一回か二回が限度です。
そのせいで
首と肩がコンクリのように
固まってしまい
今はそのリハビリをしています。
だから現在は
これまで来られた方のみしか
お受けしていません。
そして
いただいた本にいうのもなんですが
そういう本を
百万遍読んでも
ほとんど役に立ちません。
つまり
来談者の変容は
現場の臨場のなかでこそ
起きるのです。
理論なんか関係なく
お互いの<存在>のみで
向き合うしかないのですよ。
しかし
このお二人には
それが
わからなかったらしい。
だから
本を送ってきたり
手渡されたりしたのでしょう。
なぜ
そうなるのか。
そこには
尊大な自我があり
私が彼らと向き合いながら
その命へ向けて送る
私の命の息吹を
感じ取ることができない
鈍さが
あったからだと
思います。
鈍いから
そこに
かけがえのない愛があることに
気づけないのだね~。
私はそのことを考えると
すこし悲しくなりましたが
でも
決して見返りなど
求めてはいけない!という言葉に
叱咤され、同時に
なぜか
ホッと救われました。
それは鈍さと共に
そのひとの無意識のプライドが邪魔して
常にそこに懐疑が横たわるために
人間の息吹や愛を
そのまま感じることも
見ることも
できない・・・という
悲しさでもあります。
反対に
知識があれば
現実が
どうにかなるような
未熟さと
錯覚があります。
おそらく
体ごと生きるという
体当たりで生きる
という体験が少なすぎて
観念的なために
現実は
知識などを超えて
生々しく起きてくる
ということを
知らないからです。
それが
ピンとこないのでしょう。
つまり
そういう
体験を
体で積んでいない。
もっというと
頭だけで生きており
体が
死んでいる
からです。
体が死んでいる
というのはどういうことかというと。
反対に
体は生きているというのは
体操やヨガやウオーキングなど
体を使うということでは
ありませんよ。
体が生きているというのは
なにかに直面して感情が動き
体に反応が起き
そういう自分の
頭と体とが
一体となって
その直面したことに
頭も
体も
生々しく
一緒に作動(生きる)する
という
事です。
そういう臨場溢れる現実に
向き合い
取り組むということです。
そういう自分に起きる苦しさを
体とともに戦うことです。
だから
いつも
自分は自分の体と
一緒い生きている。
しかし
頭のいい人に多いのですが
それを頭だけで処理してしまうと
体はそれに直面しません。
からだが
置いて行かれるのです。
そういう人が
一番よくやるのが
本当は、
体がワナワナするほど怒っているのに
それに知らんぷりをして
「コンナヤツなんか相手にしない」と
自分を
相手より高みあげて
その体の怒りを封じ
なかったことにしてしまう人たちです。
頭が小賢しく
廻ってしまうのですね。
もう一つの問題性は
おそらくご本人は
もしかしたら
気がついていないかもしれませんが
無意識の裡に
心理学のオーソリティーや
精神科医の下に
私の価値を
位置づけてしまったのでしょう。
悲しいけどそれも仕方ありません。
彼女たちの意識の中には
瞬間的な序列ヒエラルヒーが
染み込んでいるのかもしれません。
だから自分の目でみて
感じて
見極めるのではなく
そのヒエラルヒーに従って
意識が動くのです。
そこには
無名のどこの誰ともわからない私より
有名で学者や
先生たちの方が
説得力を
持つのでしょう。
まあ、しかし
これがごく一般的な人々の
ものさしでもあり
大概の人が
無意識に陥る価値意識です。
では
反対に
彼女たちは
その
オーソリティーや精神科医に
これを読んでくださいと
私のブログを読むように
進言したり
するのでしょうか?
きっとそんなことは
しないでしょう。
(これに関しては訂正をいたします。
ひとりの方はその著者に
わたしのブログを進言されたそうです。)
なぜならそこには
アプリオリに
権威や知識の
ヒエラルヒーが
固定観念化してあり
ほゞ無意識に
自分より
知識がない人や
勉強ができない人や
頭がよくないと
思われるひとの
仮想の中の上位に
自分を置き
その意識水準から
他者を
見ているからです。
だから
ほんとうに
無心に、
無学に
無知識にただただ
今の自分から抜け出したい一心で
私とむきあう人々が
ドンドン自己回復し
生き生きとしてくるのに比べ
頭が先行し
反対に
瑞々しい感性が
鈍って
その知識が詰まっている分だけしか
反応できない。
無心であるということが
どれほど素晴らしいかを
知らないのです。
私は知っている
という自意識が
どこかで
その無心を邪魔していることに
気づけないのですね。
そして
その
世俗的な意識水準では
無名でただのおばさんの私に
有名な心理学者の本や
精神科医の本を
ギフトしたのだと思います。
決して悪気もなく
むしろ
善意として
そうしたのだと
思います。
こういうことは
よくあることで
当たり前であり
私はそういうことには
慣れてしまうほど
直面します。
でも
ほんとうは
そういう
その人が
私は悲しいです
正直にいうとです。
自分を瞬間的に
他者の上においてしまい
人間の真摯さや真剣さが
そのカプセルの前では
伝わらない。
なぜなら
そういう人は
自分は
分かっている・・・と
どこか
こころの隅で思っている
おごりのカプセルの中にいるからです。
それは自己防衛のカプセルであり
その本当の姿は
深く傷を負っている自尊心です。
その人たちも
深く傷ついているのです。
だから
無知な自分に怯え
何もしらないと
思われたくないと
いう怯え
さらに
頭が悪いと思われることへの
抵抗や
恐れが
あるからです。
自分は
自分では不遜にならないように気を配っているつもりでおり
しかし
そこそこには
自分は
できる人間であり
しかし
自分は最低の人間ではない
と自尊心でカヴァーせずには
いられない。
だかこそ
おそらくいつも
無意識のうちに
善意の裡に
他人を安く値踏みして
ディスカウントしてしまうのです。
そしてカウンセリングは
本当は
厳しいものを見つめるためにこそ
こころと心が向き合い
響き合い
そのことに尽るのに
それを勘違いして
こころ分析し
操作できる
道具のように思い込む。
だから
知識をつめば
どうにかできるという
罠に陥ってしまうのです。
カウンセリングは
自己洞察の
道具じゃないからね。
人間はそんなに安易でも
ない。
そういう短絡は
ほんとうに
悲しいことです。
そういう知識の有無や量に
こだわって
ほんとうは
自分が
どれほど
みじめな存在であるかを
受け入れないのです。
でもね、
ほんとうはね、
自分はたいしたこともなく
ひとより優れてなどなく
みじめな存在である。
ということこそが
その人を
救います。
そこを見つめたときに
初めて体中の中を
悲しみが通り
その人を浄化していきます。
そういうパラドックスが
起きるのです。
だからこそ
カウンセリングの最終到達点は
その人間の自我の
全否定という
パラドックスの中にあるのです。
少し飛躍しますが
そのことを書き
そこから
考えていきましょう。
自分はだれよりも
劣っている。
自分はなんて
未熟で
愚かであるのか。
という地点こそが
自分を開眼していくのです。
自分は何もしらない
という
ゼロ地点に立つ自分です。
そこに到達して
自己幻想を
何もかもを失って
自分の自我の装飾を
全部剥ぎ取られれてこそ
謙虚の謙虚の謙虚だけの
無力な自分があらわれてきます。
謙虚は
愛の世界です。
謙虚は自己ディスカウントでは
ありません。
謙虚は自己否定の
反対です。
その無力で
みじめな自分を
抱きしめたときこそ
そこに
無限の世界が繋がるのです。
なぜなら
人間はみな
そうだからです。
そこにこそ
人間の原風景があります。
その最低の自分を
愛し
抱きしめ
そこから空(現実)を見上げるのです。
この世界に置かれているもの
そのありのままを
そのまま
肯定できる
謙虚なる自分です。
デコボコの人間の差異や
対立し対抗する人間の
愚かな自己顕示や
自分の自我をそのまま延長して
他者を覆い尽くそうとする支配欲や
優劣の感情など
人間の自我を覆っているものが
一掃されて
すべてが
そのまま置かれている・・・という
神の眼差しが
見えてくるのです。
「カラマーゾフの兄弟」に出てくる
長老ゾシマの世界です。
「どんな草も、甲虫も蟻も、金色の蜜蜂も、
生きとし生けるものが、
およそ知恵などいうものを持たず、
驚くばかりに自分の道をわきまえ、
神の奥義を証明し、
倦むことなくその成就に努めている。」
それは人間も同じです。
自我の汚れを取り除いたとき
人間は驚くほどに
真摯になり
自分の道をわきまえ
倦むことなく
自然に生きようとします。
すべての人間が平らな地に
つまり
神の視座に抱擁され
生きておりて
「人間の精神的な価値のなかにのみ
平等はある」
事を理解するのです。
自我の自己否定(すなわち自我の死)とは
「ヨハネ福音書」第十二章、二十四節のイエスのこの言葉のように
「はっきり言っておく。
一粒の麦は、落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ」
という
死と再生のプログラムの中にあります。
一粒の麦はもともと
そこに宿る生命力を持ち
それが大地に落ちることで
実をむすぶのです。
それは人間も
そのとおりなのです。
つまり
尊大な自分の自我とそのプライド。
私に言わせれば
空疎で道化師のようなその自我のプライドを
捨てて、身一つの自分になる。
しかし
そのことで
煩悩から放たれ
生命の純化が輝き
今までにはなかったような
精神のつながりと新しい価値の中へと
生き返る事になる。
もうそこには
草木のように
虫のように
空のような
ひたすら懸命に生きる自分しか
ありません。
それは
儚くて
たよりなくて
弱弱しい私ではあるが
なんと
清々しい自分であるか。
そういう
際立った自分を獲得して
いかに
生かしていくか
です。
私は本をくれたお二人が
ただただ
その頭でっかちの固い衣を脱いで
こころを開き
愛を感じ
赤子のように無心に生きてほしいと
願っています。
口で言うのは
たやすいが
それは
なんと難しい道のりでもあることか。
でも
そういう自分を見つけることがすでに
そうなっているのです。
いつか
そうなったら
また
一緒に
話そうね!
私へのメッセージだなと。シンクロニシティでしょうか。
今は田下さんの仰ることが分かります。痛いですが、向き合えます。有難うございます。
ひとつだけ‥私は、著者の医師にこのブログを読んでくださいとお話しました。私は田下さんの在り方を尊敬しています。私は自分の人を見る目、世の中を見る目を信頼しています。