大島渚と小津安二郎 その2 |
大島渚の映画は
重苦しい!
一方小津は飄々と
かろやかである。
私の文体は
一気呵成に書きあげていくことですが
この
重苦しい大島を
そのようには
書けないかもしれません。
だから
少しずつ
一息つきながら
書いていこうと
思います。
その前に
大島も小津も
いかにも日本人の映画監督であるなあ~と
思うのは
西洋がキリスト教的世界
つまり
神の似姿をして創られた
人間を中心にした
<人間の自我>を巡る思想と論理性の世界の中で
あるのに比べ
小津も大島も
自然の現象が連鎖してゆくように
人間の現象も
連鎖していく時間の自然の流れのなかにあるという
世界観と感性があります。
それは
西洋の人間を中心とした
動物的世界観では
なく
むしろ
植物的世界であるように
思います。
つまりその世界は
西洋が
生命が
一本の時間軸の中で
論理的整合せを持ちながら
始まり、継続そして
終結していく
世界観に比べ
日本の場合は
生命が
自然と連続し
常に時間軸には終わりがなく
現象が消滅生成しては
再構築されていく世界であるように
思います。
それは冬を越えて春が来て
そしてまた新しい苗をつくり、
今年も田植えから始まるという
農耕、稲作の文化として
植物的自然の時間軸の中で生きる
日本と日本人のコンテクストでもあると
私には思えるのです。
自然と人間とが不連続に連続していく
その連鎖の深部において
幽玄という
極めて曖昧で
言葉化しにくい
世界観が生まれました。
幽玄とは
そういう終わりのない
時間軸の中で
はなりしれない深さ遠さと
永遠性のなかで
限りなく消滅、生成を繰り返していく
命の<詫びと寂び>の世界観であると
私は
思います。
小津も大島も
この幽玄的世界の懐の中にあり
小津は老成した無常観の中に棲み
大島は自らの
生々しい内面と欲望をごまかすことなく
切り開いて見せますが
しかしそれも
最終的には
無常観の
滅びへと突き進んでいきます。
そして
「美しい世界とはなにか」
小津は徹底した日常の中に
一方大島は
非日常の中に
それぞれの
<美しい世界>を
創り上げたと
私は
思います。
さてそんな中でも
私が尤も惹かれるのが
大島の
いかにも大島らしい少年の姿があるの
「少年」という作品です。
小津の中にも
いつも少年がおり
特に
無声映画時代の作品にいつも
登場する少年は
小津そのものでしょう。
その少年を演じるいるのが
<突貫小僧>という
子役なのですが
いかにも子供らしい自由さと
奔放性を持ち
しかし
ななめ目線で大人を見上げている
いわゆる
<ガキ>の少年です。
それに比べ大島の<少年>は
大人の世界の影と闇を
背負い
押しつぶされそうになりながらも
体を硬直させ
屹立して
その稚拙な大人に
代わり
世界を肩代わりしようとする
<アダルトチャイルド>です。
次回は
この大島渚監督の
「少年」という作品から
入っていきたいと
思います。