ピュアなる自分を生きる!その2、出遭いがすべてです。 |
O さんから
ちょっと気になる人の話を
聞きました。
その人はTさんで
すこし有名かもしれません。
そしてもう故人となられました。
Tさんはとは
30年くらい前に
演出家のT・T氏のワークショップで知り合いましたが
彼女は
私の大学時代の親友の友達でもあります。
そういう関係から
ワークショップ後の彼女のことも
風のうわさに聞いていました。
そのTさんが宮沢賢治に関する本を出し
その本を介在したワークショップを
各地でやっていたそうです。
そしてそのワークショップに参加した人の中で
希望者は
Tさんが主催する会の会員として
料金を払って登録し
会報なり情報なりを得るという風に
組織化されていたと
いうことです。
さらにTさんは
自分学校までをつくり
その運営をしていたと
いうことです。
私からみたTさんは
とても気さくなおばさんで
情熱家でもありました。
だからT氏のワークショップでも
中心的な存在となり
彼女にあこがれたり
影響を受けたりした人も
たくさんいたと
思います。
そして
Tさんの素晴らしさは
その行動力でした。
が
私はその後
会員を募り組織することや
学校まで作ってしまうことに
ちょっと首をひねります!
つまり
出遭っただけで終わっても
Tさんは
おそらくたくさんのことを
ギフトできたであろうし
逆に
Tさんも
相手から
たくさんのギフトを
もらえたと
思います。
しかし
それが
主催者と会員となると
その関係に序列が生じ
関係が固定化してしまいます。
そこには当然
意識の<序列>が起きてしまいます。
悪くすると
幻想や依存とが
生まれてしまう可能性もある。
いや、そんなことはない
お互いに良いものを交換できる
という人も
いるかもしれません。
それは
よほど会員としても自分に自信があり
自己を確立しているひとです。
でもね~、
そういう人は
おそらく会員になんか
なりません。
なる必要がないからです。
自分を確立している人は
集団に依存しませんからね。
さらに学校となると
そこには
はっきりとした
地位の固定化が
できてしまいます。
つまり
教える人と
教わる人と
という区分です。
いやいや
それも
教えるほうが謙虚に
教わるほうに耳を傾け
お互いが
教えあう関係を
創りだすことこそに
意義があると
いうかもしれませんね。
おそらくTさんのことだから
既存の学校のおかしいさや
そこで傷ついてしまう子供たちのために
なんとかしようという
情熱があったからのことではないかと
とも
思います。
ただ私はそこには
もしかしたら
Tさんの自己幻想があったのかもしれないとも
思うのです。
自己幻想があるからこそ
自分を中心した会をつくり
自分思想や理念を実現しようと
学校まで作った。
のではないかと
思ったのです。
でも
そうなると
その自己幻想は
お互いを縛りかねない
或は
依存を発生させかねない
大変重たいものと
なってしまいます。
私は逆に
人間を組織化することだけは
絶対やってはいけないと
考えています。
理由は
人間とはその出遭いがすべてであり
その出遭いはいつも
その一回性にあると思うからです。
逆に
人間を組織したり
フィールドを固定したりすると
そこには
必ずといっていいほど
序列が忍び込み
段差がおき
様々な矛盾やトラブルが
おきてきます。
なぜなら
人間はいつも
瞬間の一回性の中を
生きているからです。
つまり
人間はいつも
一回性の出会いのなかで
何かを獲得し
また
反対に
何かを失う。
そういう一回性が連続していく中に
私たちは
いきています。
だからその一回性が
必要であれば
連続して継続されていくであろうが
しかし
必要なければ
途切れてしまう。
そこにあるのは
まったく
対等なひとり、ひとり、であり
出遭いは常にその人間において
完結すると
思うからです。
そして
それぞれの人間は
いつ、いかなるときも
自分の運営と経営の自立を
常に保障されなければならない!
と思います。
もっと平たく言うと
最初あったときは
自分にはないものや
自分が必要とするものを
お互いが交換できたけど
二回目はもう
その必要がないとわかったので
それでその関係は
終わりにした。
また逆に
二回目もたくさん面白いことや
興味深いことを
交換できたらから
三回目も会いたいと
おもって
関係を継続している。
というように
一回一回の関係が
結果的に長く続くことになった。
或は
一回一回の関係において
必然がなくなったから
お別れすることになった。
ということが
対等な関係を保障されることであり
それぞれが
<自分を生きている>
ということだと
思います。
だから
初めにフレームをつくる会員制度や
学校というのに
とても違和感を覚えてしまいます。
私のカウンセリングの場合も
必要な時だけ
お会いします。
ワークショップも
この指とまれ!で
集まり
それがおわるとともに
解散
です。
そして
私の中には
人が
組織されるということに対しては
大きな懸念があります。
それは
悪くすると
個人への幻想や崇拝や依存を
作りかねない・・・という懸念です。
私のカウンセリングも
ワークショップも
私が少しばかり
カウンセリングを勉強し
その知識と経験知をもって
みなさんと出会うということに
すぎません。
それが終われば私は
ただのおばさんです。
いや、
お婆さんかもしれませんね…笑い!
一番怖いのは
主催したり
中心になる人間が
カリスマ的になり
そういう幻想をふりまき
そこに共依存が生まれてしまうことです。
信望者やファンとか信者とかを
作ることです。
それは依存する人間も
依存させる人間も
両方とも
自分に自信のない人間が
そうなります。
情熱とは素晴らしいものでもありますが
一方それは
熱でもあり
ともすると
その熱に浮かされて
自分をみうしなうことでも
あります。
その情熱がもし
メシア症候群のひとであれば
それこそ
その主催者こそが
病んでいます。
出遭いとは
いつも一回性であり
脳はいつもその一回性の中を
生きています。
私たちは
その一回性の中から
つねに何かを学び
さらに
次の瞬間へと自分を展開していきます。
だからこそ
関係は
いつも柔軟で
自由であり束縛がなく
サラサラと
アッサリと
出遭い
別れるなかにこそ
お互いが
生き
生かされるのです。
出遭いとは
その偶有性にこそ
何か宝ものが
あります。
宝物を
手に入れるためには
その人が
しっかりとした
自分を
持っていることです。
勿論
そこがあやふやだからこそ
カウンセリングや
ワークショップに参加するのでもありますが
しかし
<自分があやふやだ>という
明瞭な自覚を
持っていることこそが
とても大事なのです。
それこそが
関係の中の学びのインターヴァルになるのです。
そして
それを<解決する>という
決意を持っていること。
そこには
その人が
意志をもって
ちゃんといると
いうことであります。
岩手でTさんの会のことを
聞いたとき
なぜ会員を組織したのだろう!
と疑問がわきました。
でも
Tさんが何をしようとしたのかは
私には知る由もありません。
しかし
だからこそ
私は
出遭いこそすべてであり
その一回性のなかにこそ
出遭った者どうしの
ギフトがあると
改めて思いました。
今日から10月のワークショップの参加を募集します。
参加される方は
どうぞ
ご自分をしっかりもって
参加してくださいね!
では。