放てばかえって手にあふれ! その3 |
すなわち迷語あり、修行あり、
生あり、死あり、諸仏あり衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、
まどいひなくさとりなく、
諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、
生滅あり、迷語あり、生仏あり。
しかしかくのごとくなりといえども、
華は愛惜にちり、草は棄権におふるのみなり。
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、
万法すすみて自己を修証するは
さとりなり。
これは道元の「正法眼蔵」の
現成公案の冒頭の言葉なのですが、
やっと今、この言葉が
ストンとわかるようになったな~!と
思います。
と
同時に
<流れに逆らわず!>
ということも
やっと実感として
わかってきました。
ものごとはすべてが
必然の中にあり
その必然が
現象となっているにすぎない。
その現象に踊らされずに
客観的に突き放し
覚めてみていること。
人間は
自分の自我の延長上と
自分の能力の範囲内でしか
現象を認識することができない。
しかし現象は
その自我と能力を超えて
おきている。
その時
対局てきな事については
すぐに自分でなんとかしようとせず
大きな流れのスパンのなかに
その現象をおいてみれば
歪んだものはいつかその歪みがもとへ
戻ろうとするし
間違ったものは、いつかその間違いが明らかになり
自然に修正されるであろう。
それは
もしかしたら
50年、100年、200年の時の流れなかでのことかもしれないが
しかし
いずれも
ものの道理は
長い時間のなかで
究められ
整えられていくであろうと
いうことです。
個人のことについては
自分の執着を棄てて
客観的な見地から主観を洗い直してみると
なんとか
道がみえてきます。
・諸法の仏法なる時節、
すなわち迷語あり、修行あり、
生あり、死あり、諸仏あり衆生あり。
すべてのことを仏道からみてみると
そこには迷いがあり
悟りや修行のあるなしがあり
生と死や仏道に目覚めたものや
衆生の真っただ中に
とらわれているものも
いる。
・万法ともにわれにあらざる時節、
まどいひなくさとりなく、
諸仏なく衆生なく、生なし滅なし。
しかし自分を棄て、無我のなかにあるものは
迷いも悟りもすべてを超越してあり
目覚めたものも、目覚めていないもの
そんなことなど超越して
あるがままをみている。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、
生滅あり、迷語あり、生仏あり。
しかしかくのごとくなりといえども、
華は愛惜にちり、草は棄権におふるのみなり。
仏道というのは、そもそも
肯定も否定も
超越したところにあるから
生も滅も迷語もある。
そういうときでも
花は惜しまれながら散り、
草は嫌われながらも
はびこるもんだよ!
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、
万法すすみて自己を修証するは
さとりなり。
自分の自我と能力の延長上でいくら思案してみても
それこそが迷いになるばかりであり
ものごとは自分の外部に客観的にあり
それは自然の流れのなかで明らかになる
というくらい
のんきにしていることが
悟りに通じるよ。
(伝心柱約)
と
まあ
私の勝手な解釈なのですが・・・。
道元が言っているように
思います。
昨日は
安倍総理が談話で
訳の訳の分からないことを
延々と言い、
さらに世の中は
おかしなこと
道理に合わないことばかりが
はびこりますが
それでも
大きな大きな
歴史の流れをみると
長い時間のなかで
間違った歴史は
少しずつ修正されていっています。
また
先般
ダーウインやアインシュタインなどの
生物学者や物理学者のことを書いた本を
読み終えましたが
科学や学問においても
人間は素晴らしい進歩が
今も日進月歩に続いています。
宇宙が解明され
人間が解明されていくなかで
人間が争うことや
過剰に防衛することが
いかに愚かしいことであるかが
きっといつか
世界中に沁みわたっていくと
思います。
世の中も
自分も
突き放し
でも
しっかりと
自分の全体性でいきる。
このことを
このブログを読んでくださっている皆様と
分かち合えることが
とても嬉しいです。