「男はつらいよ!」その2、いつも心はボロボロで! |
俳優渥美清が
彫り込んだ
娑婆の人間とは一線を画した
渡世人寅さんのゾーン、
つまり
なにがあっても簡単には
浮つかないという
ひんやりとしたゾーンでもありますが
もうひとつ
魅力があります。
それは
いつも心が
ボロボロになる寅次郎であり
そこに漂う強烈な<疎外感>で、
それは
人間の
誰もが
つまり
世界中の人間すべてが持っていると過言できる
疎外感です。
いつもは
見ないようにするために
分厚い皮で蔽われているその
疎外感の皮を
山田洋次監督が
一皮
一皮
剥いて
いきます。
そこに顕われるのは
ほんとうの人間の姿
禁断の人間の真実の姿です。
ほんとうは
知りたくない、
誰もが
独りぼっちである
という
冷厳な
事実です。
その心の奥の奥のほうに
折りたたんで閉ってある孤独を
寅さんのボロボロの心を通して
手のひらの上に
ひろげげていきます。
人間の心理の底流にながれている
この禁断の孤独が
寅をとおして
少しずつ遠望されていくのです。
実は
この禁断の孤独こそが
誰もかれもの
魂の原点であり
純粋で壊れそうな
人間の原風景でもあると
私は思います。
ボロボロになった寅の心から見えてくる
その原風景こそが
人間誰もが
一直線に繋がっている
地面なのですね。
そして
そこに立った時瞬間から
ひとはみんな
浄化されていきます。
愛されるとは
どういうことか。
つまり
寅さんは大衆に愛されているが
しかし
ほんとうに
愛されるということは
どういうことであるかを
知っている。
つまりそれは
恐ろしいことでもあると
いうことを
俳優渥美清も
もしかしたら
山田洋次監督も
知っていたかもしれません。
それは
大衆の孤独を癒すことでもあり
人間の人情愛で包み込むことでもありましょうが、
しかし
それだけでは
ダメなのです。
そういう大衆の意識の上部に浮かぶ
感情や欲望の
もっともっと奥にあるというか
下に沈みこんでいると
いうか
だれにも知られずに
密やかに生きている
ひとりひとりの
ボロボロで
寂しくてたまらない
孤高の地平まで
そのまなざしが
射し込まないと
愛は
とどかない!
うかうかと
喜んではいけない!
うっかりと油断しては
いけない!
人間なんて
世の中なんて
そんな簡単なものじゃ~ないんだ!
という
冷徹な自戒の眼と
用心の刃物の中で
渥美さんはいつも
自分を精査し
時には
制裁を加え
考え続けたでしょう。
その浮つかないさまが
そのひんやりと冷めた目が
いつも
大衆が愛するとは何かを
見つめ続けたのではないかと
私は思います。
疎外に準じ
疎外に甘んじ
受け入れる。
一ミリも
人気には
依存しない。
大衆には
甘えない、
阿ねない(おもねない)。
そういう厳しく
冷たい距離の中に
寅さんを置いたからこそ
ひとびとが
寅さんを
愛し続けたのだと
私は思います。
なぜ寅さんが
飽きられ
消費されなかったのかは
そこに
山田洋次監督をはじめ
渥美清さんとレギュラーの俳優さんたちの
そういう高い意識と
不断の努力があったからだと
私は思います。
心がボロボロになっては
旅に出る。
しかしそれは
気楽な旅なんかではないが・・・。
その旅の風景と
すれ違う人間のささやかな温度に
浄化されてまた
寅さんが
もどってくる。
そういう循環こそが
実は
日々を生きているということであり
人間の宿命でもあり
その循環の
原風景のなかに
寅さんが
私たちを
連れて行ってくれる。
映画を見て
気持ちを建て直して
さあ~行くか!と
映画館をでた時に
あの細い目の
目いっぱいの
寅さんの笑顔が
見送ってくれる。
寅さんから
愛された大衆が、また
明日こそ
と
生きのびて行くのだと
思います。