遠野はなんて素敵なところなの!フォーラムその1 |
第一回 「遠野物語・妖怪アイコンフェスティバル」の準備のために
遠野に行って来ました。
遠野でなにかパフォーマンスをやろうと思いついた時
ふっと頭に浮かんだのが
この「遠野はなんて素敵なところなの!」という言葉でした。
多分何度も遠野にゆくたびに
癒され、魅せられていた私の無意識が
即座にこの言葉を思いつかせたのだと
思います。
私が宮沢賢治に魅せられ始めたたのは幾つくらいからですかね~。
30歳ぐらいのころからではなかったでしょうか。
当時私はかなり精神的な暗がりの中にいましたが
いつも「注文の多い料理店」の序を読んでは
自分のこころを
洗っていたと思います。
そしてある日
それまで難解だな~と思っていた
詩集「春と修羅」の序の詩が
一気に
氷が解けたように
読み解けたように思いました。
つまり
人間が現象であるということが
ふっと私の中で具体化し
そこから賢治が見ていた歴史観や
未来へのビジョンなどが
なんとなく
わかった・・・と
おもったのです。
なんて素敵な世界なんだろう!
言葉がキラキラと朝露のように
輝いています。
詩は言葉を一気にわしづかみしては
空や山に放り投げられ
気流に乗り
空中を突き抜けていきます。
またぶつぶつと独り言のように語られる
情景のプロムナードアナウンスは
臨場の絵画のようです。
科学の世界と詩と文学の世界が
天空を網羅して
語りかけていると
思いました。
そんなこんなで
とうとうこの年まで
賢治に引っ張られてここまできました。
そして今回は
賢治の花巻の隣の遠野に棲む奥友志津子さんとの縁で
山の中の湖水であった
遠野の秋の風景に魅せられて
この企画の運びとなりました。
ただね~今回この企画をもって
盛岡の人々や
遠野の人々に会うたびに
なんというか
地に根を張って生きてきた人達の
骨太さにであいます。
それはね、
もしかしたら
賢治がもっていた
繊細さの下方に潜んでいた
東北人の
骨太さかもしれません。
都会といっても私は埼玉県の所沢であり
私のひとりよがりかもしれませんが
日本のことも世界のことも
入ってくるのは
不安な情報ばかりで
ちょっと神経がやられてしまいそうです。
いや、実際のこと
私の神経はくたびれ果てていたかも
しれません。
大丈夫なんだろうかこの国は
劣化した政治や
行き先が見えない経済や
稚拙な文化ばかりがはびこるこの国の未来は
どうなってしまうのだろう・・・。
と
そんなことが
危惧されて
仕方がありません。
確かに私は以前の私より
希望をなくしていたと思います。
しかし今回
盛岡そして遠野の青年達や
中年の素敵な男性や女性にも会い
自分の足もとに
したたかに広がる<根>を持っている人々に会い
なんだか安心しました。
都会の乾いた風に吹きさらされて
日干しになってしまう感性では
ない
もっと有機的な感性。
ふかふかした温かさや
湿り気がある、
土の上で暮らしている人のもつ
確かさです。
それは
都会と比べて田舎暮らしにあこがれるような
少女趣味的な
安易な幻想の中にあるものでは
ない、
いうなれば
自由ではあるが
限りなく曖昧なフレームしかない
不確かさのなかで浮き沈む
都会の人間とは異なる
フレームがしっかりとあり
それゆえに
時には息苦しく
自由から疎外されて
そこでいきるしかないという
桎梏を
しのいできた人間の
図太い芯のようなものを
感じました。
あゝこう言う人々がまだいる限り
この国は大丈夫だという気持ちが
私の中に湧いてきました。
盛岡の高松池映画祭を主催する青年も
映画祭や音楽祭を主催するカフェの女性オーナーも
さらに
遠野の馬搬の青年やその仲間も
そして遠野の庭師さんとその相棒の女性も
また道の駅を統括する女性も
なにか都会人とは違う
ドンとした存在の形を
もっていたように
思います。
そして
多くの人は
文化は都会で生まれ
地方へ下ろされているように
思い違いをしていますが
実は
文化は
周辺(地方)から生まれて
それが都会へと向かって
ベクトル化するのです。
つまり文化は周辺で生まれ
都会へ向かう途中で
少しずつ洗練されて行きますが
都会という中心へ着いた文化の先には
退廃と死しかありません。
そこを勘違いして
地方が都会のマネをしたり
地方に都会的感性を持ち込もうとすることは
現代の大きな誤謬なのです。
そうではなく
都会人からみたら
ダサク、泥臭く、垢ぬけない
地方の文化の中にこそ
たくさんの文化の原点があり
素材やエキスが
潜んでいるのです。
そしてそれらは
潜在的なプリミティヴな混沌の中に
未整理の状態で混在しています。
そこには
自我が分裂する前の
赤ん坊のように
骨太の感情や行動への衝動が
かき消されないで
あるのです。
地方にまだ残されている
生命力
文明に消費されていない生命力
そんなものを探し
そんなものにであったような
今回の遠野の旅でした。
妖怪とは
人間社会に毒されて
生命が希薄になり
骨を抜かれる前の
人間の原形とでもいいましょうか。
そんなものを
少しでも
遠野のイヴェントで表現できたらいいなあ~と
思っています。
どうぞ皆さまも
応援してください。
昨日村上浩康監督の映画「無名碑・モニュメント」の
盛岡アートフィーラムでの上映が終了しました。
連日満席でたくさんの方が見に来てくれたそうです。
皆さまほんとうにありがとうございました。
さて続けてですが
今月の29日に
「さがみ人間未来フィルムフェスティバル」が
開催されます。
秀作のドキュメンタリー映画作品の
映画祭です。
いつも対談を撮ってくださっている
能勢広・秋葉清功・村上浩康・他の映像作家の皆さんの
ドキュメンタリー作品が
一挙に上映されます。
それぞれの作家の皆さんが
時間をかけながら
丁寧に
コツコツと撮られている作品は
奥の深いテーマばかりです。
日ごろなかなか見ることのできない
映画ばかりなので
できましたら
是非ご覧になってください。
こちらがそのホームページです。