情報社会で踊らないための自己イメージ・その5 |
かきましょうか。
宮沢賢治は
<自己イメージ>を
民を救う<救済の人>として
設定しました。
それは全くの善意であったと思いますが
でもね、
・救う人の下には
・救われる人がいるわけです。
だからそこには不可避的に
序列がおきてしまうのですが
残念ながら若い賢治は
それに気づけませんでした。
彼は<宗教的な救い主>をそのまま
自分の頭の中にスライドさせて
そこに<自己イメージ>を結んでしまいました。
だから彼の立ち位置は
菩薩さまと同じ立ち位置です。
しかし
救われる側の人からみると
それは
自分より上位の位置です。
つまり賢治は自分が上から目線のことに
気づけません。
だから
賢治の実際が名実ともに
菩薩と同じような内容と価値を持っていれば
救われるひとも納得し
尊敬したでしょうから
なんの問題もありませんが
しかし
他人に見える彼の実像は
・優しい心をもってはいるが
・ろくに仕事もしていない
・世間知らずの
・・金持の息子
くらいだったのではないでしょう。
だから、羅須地人協会以後
いわゆる百姓になったと自称する賢治は
周囲のホンモノの農民の厳しい目に気づいて
怖れと怯えと萎縮のなかで
失速していきました。
つまり
自分が結ぶ<自己イメージ>の中には
・自分の理想像も仮想されてはいっていますから
賢治の場合は、
他者から見える実際の賢治と
賢治が思いこんでいる<自己イメージ>との落差が
賢治を萎縮させ
苦しめ続けたのだと思います。
でもね
たいがいの人は多かれ少なかれ
そういう自分を膨張、拡大した<自己イメージ>をもっているものです。
それは脳の機能そのものが、
仮想とシュミレーションをするものだからですね。
若かければ若いほど、
その膨張、拡大した自己幻想の中でいきてしまいますが
年を経て
現実世界で格闘するにしたがい、
失敗や挫折を繰り返すなかで
少しずつ自分の実像というか等身大に気づいていくのです。
そういう現実と自己イメージとの
◎統合が
できていくのです。
でも、それも現実と格闘していない人間は、
そういうことすら気づけませんから
ずーっと自分が考えたり、妄想している世界がそのまま通用すると
勘違いしていきてしまいます。・・・そういう大人も
山ほどいます・・・苦笑!
では
自己イメージは
どういう役割をするかというと
それは
・自分と自分以外の他者とを
・相対化(照らし合わせて見る)という役割をします。
つまり
・他人にとって自分がどのように見え
・どのように思われているか
をはかるのです。
まあ自分のアイデンティティーの確認のようなものです。
自分の存在証明や存在価値を
・再確認するようなものです。
ほんとに単純に言えば
自分が傷ついたり、落ち込んだりするのは
・自分の<自己イメージ>が傷つくということで
・他人にその自分のイメージ通り受け入れられなかった
ということです。
つまりは
・自分のありのままと
・<自己イメージ>との差が
・つきつけられて
がっかりしたということです。
自分をいい男だとおもっていたら、そうじゃなかった・・・くらいのもんです・・・笑!
だから、そこで目を覚ませばいいです・・・・笑。
ではその<自己イメージ>有効に活用するには
どうしたらいいか。
そもそも脳の中にある<自己イメージ>は
人間の無意識に潜む<自己イメージ>で
それは、
その人間の育成歴の中で
◎外との関係において
・刷り込まれた<自己イメージ>です。
つまり
育成のなかで
他者との関係で
自分をシュミレーションし仮想した<自己イメージ>であり、
それは
自分の等身大と乖離しているから
問題がおきるのです。
だとしたら
今度はこれまでの理想の自分ではなく
自分の等身大の<自己イメージ>や
自分が一番なりたい自分の<自己イメージ>に
書きなおしたらいいのです。
或は
自分が息苦しいくない自分の<自己イメージ>に
書きなおしたらいいいのです。
それを
◎意識的にヤルのです。
これまでは
・無意識のやりたい放題にさせていたが
今度からは
・意識で、書きなおしてヤル!
で
いいのです。
※ 意識でかきなおしても
それはすぐにもとにもどりやすいですので
しつこく、しつこく
何度も書きなおしてください。
そしてなるべく
・具体的な<自己イメージ>が
いいと思います。
どうぞ以前私が書いた
自分の
・ドメインのことを思いだしてください。
・自分には何ができて
・何ができないか
自分の可能性と限界を
外かしっかり眺めて
それを考えてください。
その時自分の自分のナルシズムなんかは
どんどん剥ぎ取ってくださいね。
そしてこの
意識的な<自己イメージ>の利点は
何かあって
自分が動揺したり、落ち込んだりしたときに
はッと
この<自己イメージ>を思いだして
自分を立て直せることです。
つまり
何かあった時
いつも自分の原点に立ち返れることです・。
そして
いつも
そこからリセットすればいいのです。
例えば私は<良寛さん>をお手本にした<自己イメージ>を
持っています。
だから
なにかあったら
・こういう場合、良寛だったらどういう風にするか
どういう風に考えるだろう
と
自分と良寛とを照らし合わせて
自分を立て直していきます。
前回脳の中はいつもリセットだと
書きました。
それとね前々回書いたように
・幻想の自己イメージも
・マイナス幻想の自己イメージも
逆モデルとしてのはたらきです。
スポーツ選手がよくやる
「成功イメージ」のトレーニングと同じです。
そして大事なことは
自分にとっての「成功」とは
なにか、どういうことかを
よーく考えること。
自分の欲望やコンプレックスを
よーく見つめ
「成功」の中身を
・具体的に考えること。
抽象的に、
いい人になりたりとかいういうのは
ダメですよ。
できたら
自分が尊敬する人などの
具体的なモデルを思い浮かべる方が
いいと思います。
具体的な人間像は
具体的なモデルとして
・具体的な方法を
示唆してくれます。
宮沢賢治も最後には
自分の等身大に気づきました。
だからこそ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
という
ゼロ状態の自分を希求しました。
そして最後は
病床から空を見上げて
「方十里 稗貫(ひえぬき)の みかも稲熟れて
み祭三日 そらはれわたる」
と
詠みました。
人間なんてちっぽけなもんですよ。
そして人生は一度きりしかありません。
脳も一回性の世界です。
一回性というのは
一回きりで二度とおきないと
いうことです。
だから
<こころ>というものも
<たましい>というものも
人間の脳が仮想してつくりだしたものです。
でもね、こういうことは言えるんですよ。
つまり
<こころ>という現象は
その人の素直で美しい精神の現象の総体を表す。
また
<魂>という現象は
どんなことがあっても、
どんなに自分が汚れても
人間が立ちかえる原点の場所があり
そこには澄みきった水のような鏡の世界があり
それは
すべての人がもっている現象である。
さて
情報社会で生きのゆくには
もうひとつ
情報を見極め
ちゃんとコントロールする必要がありますね。
それをどうするかを
次回書いてみたいと思います。
花もすべて一回きりで
潔いね!!