傍観者なんかに、なるな!その2。 |
脳で仮想したものと
現実で体験したこととを
突き合わせながら生きています。
脳の仮想と現実の
●実相体験の狭間で起きるのが
<こころ>という現象です。
<こころ>というのは
なにかまとまったものがあるのではなく
点いたり消えたりする現象なのですね。
<魂>も同じです。
しかし長い間人間は
<こころ>も<魂>も永続するという風に
考えてきましたが
現代は科学がどんどん人間を解析できるようになり
<こころ>も<魂>も
脳の働きであることがわかってきたのですね。
つまり人間とは
一回きりの
現象なのです。
そういう中で
脳はいつも
●世の中と自分の世界とを附き合わせながら
シュミレーションしています。
つまり私たちが<真実>と思いこんでいるのは
●脳がシュミレーションした、仮想世界ですから
それはいつも
その仮想と現実の実相の中で
●落差がおきてきます。
それがいわゆる
・自分の想定外のことが起きたり
・自分が傷ついた感情に陥ったり
・自分が裏切られたとおもったりする
ことの原因です。
だから
本当は
自分の脳のシュミレーションが
・違っていたり
・それが甘かったり
・自分の脳の中にデーターがなかったり
しただけです。
さらに昨日書いたように
世の中(つまり自分以外の人間たちの世界)で
・自分が体験することや
・自分が経験することから
逃げて
世の中を傍観ばかりしていると
いわば、
脳のシュミレーションの方が先行し
さらに
仮想データーばかりが積まれた世界で
ちっとも
現実検証されていない
妄想世界に
自分が取り込まれていくのです。
妄想世界とは
自分が推測したり、仮想したことが
いかにも
本当のように思え
思いこんでしまう世界です。
私たちの脳は常に仮想しながら
現実と折り合いをつけようとしますから
時に
その
・もしかしたらそうかもしれない
が
・きっとそうにちがいない
となり、やがて
・ぜったいそうだ
という風に
仮想を進行させてしまうのです。
なぜだと思いますか?
この<時に>・・・・という言葉がヒントです。
この<時>とは
自分が不安になったり
不安定になっている<時>です。
さらにいうと
ちゃんと結論がみえていない<時>です。
そういう不安定な中に自分がいる時
なんとか自分を
安定させようとして
シュミレーションを重ね、進行させて
仮想の結論で
●意識が自分に説明をつけようと
するのです。
●説明がつけば、心も体も
ホッとするでしょ!
まあ、いうなれば
自分の意識が
●自分をマインドコントロールしようとするのですね・・・苦笑!
※自分が不安になっている時は必ず
・自分を肯定できず
・感情が先行し
・自制心をなくし
・自分も他人をも疑っているときです。
ちなみに結論が見えてくるには
◎たくさんの体験と経験が必要なのです。
脳は基本的には
その生命体の保全を図ろうとしますから
・意識で説明をつけて、
・嘘でもいいから安定を図ろうとするのです・・・苦笑!
つまり
・その不安定な状態が続くともろ、体に影響が来ます。
・体のホメオスタシスがたもてなくなります。
だから何等かの結論を出して、
さっさとそこから抜け出てしまおうと
するのではないかと
私は考えています。
※ホメオスタシスとは
「生体恒常性」といって
体が急激な変化や不安体な状態になって
ストレスがかからないように
常に体を一定に保うとする
働きです。
つまり人間はいつも
ある≪合理性≫に中にいきているということだと
思います。
そして意識はいつもロジカルに
●自分に説明をつけ
●自分を維持しようとしてくれる働きなんだと
私は考えています。
こう考えていくとつくづく
私は、
人間は体の方が優先され
●体を保全するために
頭(脳)はあとから発達したと思うのですが、
いつのまにか
頭(脳)に体が乗っ取られて
人間は
頭でっかちになってしまった~と思います。
ちょっと飛躍するのですが
まあ昨日の若者のことなどを考えると
日本の教育がいかに偏狭かが
嘆かれます。
勉強よりも
子どもは野山を駆け巡り
野山がない都会の子どもも
ジャイアンやのび太のように空き地や
公園で遊びまくり
大人が介入しない
子供だけの世界でいろんなことを
体験や経験することの方が
どんなに大切かと思います。
受験も受験勉強なんかもやめて
青年になるまでは
子供の自立的な勉強にまかせたらいいと
思います。
頭で得た体験よりも
体で得た体験のほうがよほど定着します。
こざかしく頭でアレコレするよりも
●体で覚えろ・・・ですね。
頭(観念)が先行すると
どうしても神経症的な病理に陥りやすくなります。
日本全体の若者が
神経症的病理の世界から
脱出するためにも
傍観者になるな!
体をはって
体当たりできろ!
ほんとうに
本当に
そう思います!
満開のアジサイです。