漱石も子規も、その2 |
辞書で引くと動作、姿などに乱れがなく、
きちんとしていること。とある。
私は「知」はこの端正なる自分へと、
自分が整えられたいくことであると
考えている。
それは感情に流されず
感情に自分が乗っ取られず生きるということでも
ある。
※感情とは最も本能に近い働きであり
原初的エネルギーでもある。
だから感情に乗っ取られると
理性が利かなくなり、
自分のことしか眼中になくなり、そして
感情に流されると、ボタンを掛け違えて
自分を見失っていく。
つまり
生きるということが「端正」になっていくとは、
その人間の総体、つまり長所も短所も
美しきことも下品なことも
清きことも下卑たることの
それぞれが,
それぞれに、
端正になっていくことであると
思う。
もっというと「端正」とは
長所も短所も、美しきことも下品なことも
清きことも下卑たることもが,
それぞれのドメインの中で秩序を保ち
はみ出したり乱れていないということでもある。
もしそれらが秩序を失い乱れ、
さらに、
欲どしさが付加しているのなら
それは「知」が感情に襲われてしまった時だと
思う。
つまり「知」とは理性でしっかりと手綱どられている自己であり
それが感情に乗っ取られた時に
長所も短所も美しきことも下品なことも
清きことも下卑たることもが
どんどん汚らしくなっていくのである。
つまりひとりの人間の中で
長所も短所も美しきことも下品なことも
清きことも下卑たることもが
ちゃんと秩序とバランスを以て
正座している時
そこには「知」の働きがあるということです。
しかしそこに何らかの<欲>が働き始めると
それらはいっぺんに乱れ
「端正」ではなくなる。
人間の欲がぽっかりと顔を出して
いつの間にか自我が感情に乗っ取られている。
その端正が乱れる、
あるいは崩れる時とはいつも
感情によってその「知」が侵されているときである。
感情に侵されている間は
長所も短所も美しきことも下品な事も
清きことも下卑たることに
崩れたり破れ目ができたりしてしまう。
その破れ目からは
エゴや自己陶酔の感情が自分を冒していく。
残念ながら、自己の感情の動向に
自覚的な目をもたないものは
端正なる自分などとは、ほど遠くなる。
その
如何に自分を端正に整えて生きるかを
漱石も子規もが考えたのだと思う。
その結果多くのことを諦めるということを
漱石も子規もがうけいれた。
漱石はそれを「道草」の中で
「片付くものなどありゃーしない。」と書き
子規は「病床六尺」の中で
「あきらめ」を楽しむと書いた。
諦めるとは何を諦めるのかというと
●自我の感情が執着する俗的な諸事を
諦めるということである。
自我の感情が執着する俗的な諸事とは
人間の自我が作り出した諸々の価値の世界であり
その価値に固執することをしないということが
あきらめるである。
※大衆社会はその属性にみちており
それを諦めるということは
大衆社会からの離脱であり
群れを離れて遠くへと自分を置くことでもある。
なぜあきらめるという一見消極的なことばになるかというと
人間は自分が作り出す世界を
幻想化せずにはいられない生き物である。
その幻想を追い、所有しようとすることが
執着という形でその人間を囲い込んでしまうからです。
だから幻想から覚めるということは
執着を手放すことであり、
諦めるということこそが
諸事の実相を見極め、それは翻って
幻想の醒めた厳しい地に立ち
●自分の自然性に帰還していくことでもあるのです。
自然に帰還していくとは
限界のある自分をそのまま受け入れ生きると
いうことです。
※限界のある自分とは
貧しく脆弱な自分であり、その自分を
しっかり受け入れるということでもある。
そして
その幻想が覚めた世界は
いわゆる感情の興奮や快楽の世界ではない。
むしろ感情が取り払われ
世界も人間をも、
絵画のように見ている
静まりかえった世界である。
それは群れから孤立した自分でしか獲得できない世界でもあり
孤の静けさのなかへと
自分を誘ってくれる。
しかしその孤の世界には
快楽的な興奮ではない別の感動が生じる。
静まりかえって自分に集中する充実と感動が
ある。
足がしっかりと大地についている感動である。
安易に興奮し、安直に感動にコネクトし
そして安易に感情をカタルシスする者は
そういう境地に行くことはできない。
常に浅いところでのカタルシスを繰り返しては
すぐまた元に戻るルーチンの中で、
浮いたり沈んだりを
繰り返すだけだ。
感情のエレベーターを昇ったり下りたりで
人生が消費されていく。
そういう通俗的、大衆的属性を振り切って
漱石がなにを考えたか。
或は若くして自分の死と向き合わねばならなかった子規が
何を考えたか。
ふたりに共通するのはこの世という俗世に対する諦観であり
漱石はそういう俗世と距離をとりつつ
それでも俗世と向き合った。
子規は、多くのことを諦めしかし、
諦めても絶望に陥らず、
平然と生きること。
逆に諦められるだけ諦めて、
さらに諦めを楽しむことへと
自分を導いていった。
この二人の諦観を仰ぎ見つつ私はその背中を追っている。
そして漱石、子規の諦観と同じ質のものを
私はドストエフスキーにも見る。
それは次回書きます。
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