漱石も子規も、最終回 |
自分がどう生きるかについて
人生を見渡し、社会を見渡して考え、そして書いた。
それは同じように道元や親鸞も同じであり
私にとっては人生の師たちでもある。
それで今日は道元と親鸞について少し書いてみます。
私はこの二人にも大変大きなサジェスチョンを
貰いました。
道元の世界はまさしくこの世と人間を
現象として相対化している世界で、
今から800年ちかく前に、
まるで脳科学を承知しているかのような
認識論を展開している。
そのメタ認知力には脱帽する。
人間は、
他者や世の中との相対的な<関係>において、
認識し、思想し、行動が規定されていく。
それは道元にすれば覚醒を得るということを
逆に認識、思想、行動を
如何に自己の手の中に置くかということでもあり
自己の手の中にそれらが置かれ、
世俗的な先入観念や雑念を取さり
最も自然な(脳の)働きを得ることで
<悟り>が起きてくるということを
越前の深山の中で実践していった。
※人間の生活を最小限の振る舞いの中に規定(様式化)し、
一切の雑念、煩悩を振り払い、さらに
自己の脳と体とが集中一致して思惟し行動していく人間へと
覚醒していく。
しかし彼はどういうわけか、48歳の時に
うかうかと鎌倉幕府からの招聘をうけて
ほんとにうかうかと鎌倉へと行ってしまった。
鎌倉幕府の執権北条時頼に招かれて行ったのであるが
しかしそこはまさに俗の俗たる権力と欲とがうごめいている
真っ只中であり、
さらに武士とは、殺人を職業とする人間たちである。
親子、親族であっても殺し合い権力争いをする武家のアイデンティティの中へと
道元は踏み込んだが、しかし
弱冠21歳の若さで血みどろの陰惨な中を生きる時頼に
道元は何を言えたのだろうか。
親族や眷属を皆殺しにして権力をてにいれた若き執権時頼に
道元は何を話したのであろうか。
その地獄のような中を生きるざるを得ない時頼に
道元の言葉は響いたのであろうか。
たぶんそれは時頼にとっては
まるできれいごとの絵空的世界のことばでしか
なかったのではないだろうかと
私は思う。
だからこそ道元は半年そうそうでそそくさと
逃げるように山へと帰っていった。
道元は彼の師である如浄から厳しく
「国家権力」へ近寄ることを禁じられていた。
しかしうかうかと近寄ってしまった。
時頼の現実がどれほどの陰惨と業の深い中にあるかを
道元は見誤ってしまったのではないか。
おそらく鎌倉へいったものの
そこは救いようのない地でもあり
道元は逆に絶望の闇へと突きおとされたかもしれない。
だからこそ道元は山へ帰ってから病気になり
その4年後に死んでしまう。
鎌倉での答えを出せない自分を
苦しんだのではないだろか。
道元より少し前に生まれた親鸞は
鎌倉時代の闇でいきる人々を
なんとか救い出そうした。
力だけがものを言う武士の世界で
善も悪も聖も邪もがもう
理念としても認識としても、効力を持たない
地獄のような世の中で、
親鸞は法然の後を引き継いで、
ただ<救い>だけを純化していった。
つまり
「念仏を唱えさえすれば救われる」という風に。
救いとは
我を忘れて<阿弥陀様>すがり、祈ることであると
した。
彼は非力で弱く、
愚かで煩悩の欲に沈むしかない人間を
そのまま、丸ごと掬い上げることしかないと
気づいたのであろう。
念仏の言葉を唱えることによる
自己回復と極限の自己救済を唱えていった親鸞は、
迫害を受け島流しにもあいながら、しかし
自身のことも、ことさら僧であることにこだわらず
ただの俗人として、巷のなかで腰を据え
そこここにいそうなただのオッサンとしての自分を
民衆に差し出していった。
私にとって道元は眩しいほどの理知の世界である。しかし
それは大衆とはほど遠い覚醒の世界であり、
その難しさも厳しさもが
到底凡俗には受け入れられないであろうと思う。
しかし道元の提示した認識の世界はまさに
現代の脳のメカニズムが起こす人間現象の
根源的本質そのものを言い当ててもいる。
親鸞のその慈悲と憐れみの世界も
その本質においては厳しい覚醒の中から
生まれたものであり、
この世とは何一つ解決できないという無力感や
あきらめの先に、しかしそれでも
如何にあきらめずに
生き抜いていくかのエールを
親鸞が民衆に贈った。
ふたりともが私に
人間とはなにか、
その人間が作り出す社会(世俗)とはなにか
そこでどのように生きるべきか、生きたらいいのかを
示唆し教示し、包み込んでくれる。
漱石が至った<則天去私>も
正岡子規の
「あきらめるより以上の事として
あきらめることを楽しむ領域にゆく」
という覚醒も
道元の世界をいかに相対化し、さらに
すべてが自己の内部で起きる現象であるという認識も
親鸞のひたすら祈り「阿弥陀如来」にすがるとことによる
自己放棄と自己超越も
すべてが、私が人生をかけて思惟し、考察し、そして
行動してきたことによる<気づき>の世界へと繋がる。
そして
気づくことは、
脳のメカニズムからしても
自分が一個の<孤,個>であることを、
或は<孤、個>でしかないことを自覚せざるをえない。
<孤>はちっぽけな個として自分を進むしかない。
しかし
<孤>は突き進めば、大きな海がそこ立ち現れてくる。
それはまさしく<孤>が群れを成す人間の海であり
その海に浮かぶ<孤>は不連続に連続している。
全ての人間が包括され不連続に連続する時
そこには個が超越された人間の真理の海が
滔々とひろがっている。
今日でこのシリーズは終わりです。
なんだかまたひとつ
眼が覚めたきがします。
書きながら
読んでくださる皆さんと一緒に
私も学んでいる。
●「MIZUTAMA」が更新されました。
ドキュメンタリー映画の村上浩康監督のインタヴュー記事です。
メッチャ面白いですよ!
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今後の掲載予定の目次も
ご覧ください。