自分と世界を編集していく!その4 |
遠野はとても素敵なところです。
しかし東京の先進性の喧噪から遠野に着くと
駅を降りてもほとんど人通りがなく、
まさしくそこは別世界です。
遠野の人には申し訳ないのですが
町は静まりかえり、閑散として
たしかにさびれてしまっている。
でもね遠野には、現代のように、人工的で尖ってなく、騒がしくない
ゆるやかで、のんびりした古き時代の風景がそのまま残っています。
それは、自然がそのままに人間の生活と調和していた頃の
優しい、美しい風景でもあり、私はそれにとても惹かれます。
ただ町はシャッター街になり、人口の減少は著しく、
なんだかエネルギーがありません。
東京のあの騒々しく、激しく賑わしい喧噪と
静まりかえったような遠野とのその落差を見ながら、
私は何か間違っている、或は
日本は何かを間違えたのではないかと考え込んでしまう。
何を間違えたのかは、勿論行政、政治の責任でもあり
地方を助成金行政で甘やかしたことにも一因がありますが、
しかし、大きな間違いは
資本主義の一元的な競争世界の経済の方法に
うかうかと日本と地方とが巻き込まれてしまったことではないかと
私は思います。
本当は、
その地に有った、その地のアイデンティティーと
プリミティヴな独創性があり、
それに基づいた経済の進捗があったはずなのに
それが奪われてしまったのではないかと、
私には思えるのです。
どんな土地にもその地の風土と歴史と伝統の中で
培われた、野太い個性があったはずなのです。
※例えばうどんの作り方、粉の捏ね方ひとつにも
その地方独特のものがあったはずなのです。
しかしそれがいつのまにか、どこへ行っても画一化されてしまい
市場価値の有無の基に骨抜きにされてしまったと思います。
地方が衰退していった一原因として、
そういうことがあるのではないかと
思います。
ただ、それとは別に思い当たるのは、
遠野の場合はひとつ問題性を感じます。
それは遠野自身があくまでも、
●その主観的世界から抜け出していないことです。
反対に客観性がかなり欠けているように思えます。
主観的世界とは
遠野の産物で例えると
●自分達の舌に合うけれど…という主観が
それがそのまま他人の舌(●客観的な人間)にもあうのだろうか?
という●視点と●検証とが落ちているように思います。
もっと具体的にいうと、
遠野がよそ者から見るとどう見えるかを
検証していないことに、
問題があるように思います。
●よそ者こそが客観的な目です。
実はこのことはとても大切なことで、
その土地の個性や価値を見出してくれるのは
よそ者の人の目や耳や舌であるのです。
よそ者の目こそ、客観的に遠野をみてくれる目なのです。
昨日もかきましたが、
資本主義の問題性は競争原理のもとで
市場をあらそい、常に技術革新のもと、その選ばれた先端のものが
優先され、他の物が疎外されていくことです。
でも、そうではなく、もっとアナログに、もっと
ゆるやかに、そして競争以外の世界だってあるはずなのですが
残念な事に現代は大衆が
●流行情報にマインドコントロールされていきます。
だから
そういうところから零れ落ちてしまったり、はじかれたり
取り残されてしまうと、ドンドン衰退がはじまってしまいます。
でも
そんなに勝負を早める必要があるのだろうか・・・と私は思うのです。
遠野をみていると、だからこそ、都会の私たちが失ってしまったもの、
人工的な現代が、もう取り返すことが困難になってしまったものが
かろうじて踏ん張ってある、という風にも思います。
遠野にいて、遠野を歩いて
人工物と先端的な建物のない風景は
なんとこころが休まるのでしょう。
絶えず聞こえるノイズもなく
緑の山々に囲まれて
まるで湖のように
し~んと静まりかえった田んぼの中で
ゆらり、ゆらりと稲穂が風に揺れている。
もしかしたら資本主義の競争原理を外れ、
過当競争からも離脱し、
しかし反対に自分達の根っこをドンドン掘り、
そこに客観性を加味していくと。
つまり、これまでの地産の特産物の
味噌や醤油や、菓子や、家具やそのたもろもろの物に、
そして遠野独自のローケーションと観光スポットを
エンターテイメントに編成し、
そこに客観性を付加して検証したら、
もう一度その土地の根っこある
もともとの風土や伝統の中で培われた
野太い個性の製品が、再び息を盛り返すかもしれません。
つまりそれらを現代風に
●編集し直すという訳です。
みんな右向け右の都会風になることなど必要ない。
むしろもう一度日本とその地方の地下に眠る、
先人たちが営々と築いてきたものの中にこそ
新で真なるもの、重で趣のあるもの、
じっと耐えて味があるものになっていくと
思います。
それはきっと、いかにも日本にしかない
小さくて、ささやかで、
ゆるやかなるものかもしれません。
資本主義的競争心や対抗心や所有欲で、脂ぎっていない、
そこから零れ落ちたからこそ
今も宿っている、良き日本のものたちかもしれませんね。
「MIZUTAMA」3号あとがきを更新いたしました。
思えば大変面白い内容であったかと思います。
読んでくださった方々に、こころより御礼申し上げます。