美しいものは、日々の中に!その4、ワイエス、神の目線! |
コメントに頂いたようにワイエスの絵を見るたびに
わたしは美しいな~と感嘆し、いつもある感動に満たされます。
それは静まりかえった沈黙の中に流れていく感動です。
ワイエスの絵は感情が動かず、
定点カメラのように情景が切り取られています。
しかしそれはまるで<神の目線>のようです。
そしてそれは<神の目線>ですから、
その目線、つまり切り取られた情景の背後にあるのは
あふれるように温かい世界です。
しかし、温かいということを勘違いしないでください。
その温かさは、
人間の喜怒哀楽の感情の温かさを透過し、
人間の支配欲や所有欲や自己顕欲や、物欲や性欲を排し、突き放して、
ただただ、命や自然や生きとし生けるもの、
ありとあらゆるものに向けられる眼差しの中にある温かさです。
風景の隅々まで、空や窓を吹き抜ける風は勿論のこと、
さらに石や金属やコンクリートにまで、
彼のまなざしが突き抜けています。
それは、人間の心の躍動とは別の、
一切動かない感情であり、
無機的なまでに冷静な、高次の感情です。
そして描かれる人間は、およそ富や権力とは無縁のところで生きている、
ちいさい人々です。
※小さい人々とは子供のことではありません。
ささやかに、小さな個(孤)としての自分を生きている人々です。
聖書の中にでてくる言葉でもあります。
ワイエス自身の目が、ありとあらゆるものに段差をつけず、
全てを公平に、
神の目で見ようとしているからではないでしょうかね~。
私は絵画や芸術作品を見、時に、
私たちは西洋美術に毒されたいるのではないかと思います。
西洋美術はどうしても<肉的、躍動>から抜けていないような
気がするのです。
主役が人間の自我や欲望の感情なのですね。
それに比べ、日本画は現象すべてを相対化しているように思います。
四季折々の風景もそうですし、
何よりも人間も自然の中の点景として
描かれれています。
私がもう一人好きな絵描きは日本画の河合玉堂です。
玉堂の絵の中では人間も、
一つの点としての風景にすぎません。
しかし、その目線は温かく、優しいです。
ほんとうはね、
私達人間も、人間という現象にすぎず、
自然の中の点にすぎません。
しかしそこには、
凡庸でありながら非凡なる日々があると
私は思います。
自然の風景も日々の暮らしも、本当は
刻々と変化していく中にあります。
この世のすべては現象です。
よくよく目を凝らしてみると、
自然は刻々と変化して、四季折々の表情がもう
おしげもなく、私達に降りそそがれ、
日々を彩ってくれています。
昨日まで咲いていた花が枯れ、木々はどんどん紅葉していきます。
人間も日々刻々と変化する暮らしの中で実は
いつも凡庸でありながら非凡である日々を生きているのです。
そのことは、
良いとか、悪いとか、善とか悪なんていう、
そんなちっぽけな人間の物差しをはるかに超えたところにある、
大いなる働きとでもいう、神のてのひらの中で
小さな、小さな<私>が生きていて、
その<私の人生>も不連続に連続しながら、
ありとあらゆるすべての現象と一緒に律動しながら生きている、
そのことこそが
美しいと私は思います。
ワイエスの絵も
玉堂の絵にも
そういうことが描かれているような気が
わたしにはします。
さらにもうひとり、私はそういう絵を見つけました。
それが、遠野にあるガラス絵館の児玉房子さんの絵です。
実は私の最後の仕事として
いつか、ガラス絵館の映画を作りたいと思っています。
ささやかな、ささやかな、贈り物として、わたしの遺作としてね。
いつかね。
皆様ありがとうございました。
今、4号に向けて準備中です。
どうぞご期待ください。