シリーズ ・優れた人間になろう!その3、羽生名人の言葉から! |
興味深い言葉がありました。
それは彼が将棋を打っていく中で
必要のないものをどんどん捨てていく,ということでした。
その時私の中でピンとくるものがありました。
しかしそれが羽生名人のいっていることと一致するかどうかは
分かりません。
ただ、頭(脳)をいかに効率よく、かつ、
有効に使うかということにおいて
もしかしたら、そうかもしれないと思います。
私達人間の頭(脳)の中は
●必要のないことでいっぱいです。
それは人間社会というものが生み出す、ゴミのようなもので、
それが脳の中に詰まっていくのです。
例えば<常識>といわれるものだったり、
自分の生育環境での風習や規範や習慣などから思いこんだものや
自分の親や仲間や会社や集団の中でも共同の幻想(思い込み)や
・・・あらねばならないという観念(強迫観念)や
さらに自分が体験して獲得した様々な思い込みが
もう山のように詰まっています。
それらは、
ほんとに本質的なものであるか、ないかということを検証されずに、
積み荷の山のように、脳の中を占めており、
さらに困ったことは、それらが
●脳が過去に獲得した脳データーとして
脳の機動に大きな影響を与えていることです。
そういうゴミのような観念が脳の中を占めていればいるほど
脳の中は、必要のない複雑さや、煩雑さで、
思考が翻弄されてしまいます。
※思考が周辺の不必要でくだらないデーターにばかり
囚われて、なかなか本質的な核まで及ばないのです。
では人間はなぜ、そういうゴミのような思い込み(観念)を
収集してしまうかというと、
それらの根底に、
生きることの不安や恐れの・感情があり、
不安や恐れを自力の理性で解決出来ない時、
あれも、これもと、とりあえず自分の不安や恐れを回避し、
自己防衛するために、
ほんとうは、周辺の情報にしかすぎず、
本質的でもない、さらに必要でもないものまでを
収集して、担保して生きているのです。
これを羽生名人の将棋の手筋で想像してみると、
おそらく、そういうゴミのような、
自分の自信のなさや、不安やコンプレックスや、
通俗的な欲や観念や感情で
●自分の思考を迷わすような手筋を
ドンドン捨てているのではないかと
思うのです。
必要のない手筋、迷いを起こす手筋の根底には
●欲と不安の感情があります。
例えば
勝とうとする
・執着の感情
負けた時に味あう敗北感を、味わいたくないという
・甘えの感情
・自分のプライドと、対抗意識の感情
・負ける事によってさまざまに起きてくる感情と不安
そして
・思いこまされ、思いこんだ、或は
・過去に教えられた、勝つための手筋、などなどです。
そういう風に、自分の頭の中を占めている、
不安や恐れや執着によって起きる、
煩悩や欲や虚栄の通俗的な観念を、
ドンドン捨てていく。
そして、
捨てるという思考と行為の中で
どんどん頭の中が整理され、風通しがよくなり、
ゴミがない分、脳の作動が俊敏になり、
脳のインパルスの道筋がダイレクトになり、
思考が明瞭、明晰になっていきます。
その結果、
最も優先される手筋がのこり、かつ
それに基づいた有効な戦術が、
閃いてくるのではないかと
思います。
あくまでも私の推測ですが・・・。
その時、シリーズその2で書いた、
●主観と客観のバランスが絶妙になり、
さらに
●主観的世界(自分の手筋)と客観的世界(相手の手筋)を
ダイナミックに編集しながら、
最終への着地へと
脳の思考回路が収斂していくのではないかと思うのです。
その時最も重要なことは、羽生さんの心理の中が
●からっぽ=無心、であることだと思います。
いっさい、がっさいの執着、欲、不安と、
それらを引き起こす感情(煩悩)が消えて、
そこには脳の数学的累進の小宇宙と、
将棋盤の上の、幾何学的な小宇宙とが、シンフォニックに広がり
やがて最終点(勝ち)へと収斂していくのではないかと
思います。
そこまで羽生さんが自分を見つめ、鍛えてゆくには
並大抵の思考力ではありません。
そして
●必要のない感情を捨てていく日常的な努力です。
つまり
脳の中のゴミが取れていくことこそは
創造への道でもあります。
※このことは全ての創造的なことに繋がります。
ゴミとは、それまでの既成観念と通俗的世界観にコネクトする
●動物的、本能的感情の世界であり、
それに支配されている脳は
●理知的には働かないからです。
ゴミをとればとるほど、水平に全部を見渡せる世界(優れた世界)が
登場してきます。
次回は羽生さんの顔から、さらに
<道元>の世界観とを重ねつつ
書いてみようと思います。
皆様ありがとうございました。
今、4号に向けて準備中です。
どうぞご期待ください。