シリーズ ・優れた人間になろう!その4、羽生名人の顔から・・? |
ただ私の勝手な推測ですから、
もしかしたら、そうではないかもしれません!・・・苦笑
先般の<竜王戦>の相手である、
渡辺明永世竜王の顔をみていると,
とても頭がいい人のように見えます。
まるで数学者や、科学者のような顔です。
この人はある部分において、
ものすごくシャープなのではないかと思います。
頭の回転速度が速く、要領がよく、キレがいいのではないかと
思います。
そして、諦めないという感情の執着というか執念みたいなものも
見えてきて、そこに彼のバネを感じます。
一方の羽生名人はというと,その顔からは
とても人間的なものを感じさせる顔です。
人間的というのは、
おそらく羽生さんも、頭がいいのですが、
渡辺さんのようなシャープなキレ方ではなく、
普通の人のように悩んだり苦悩したりするのではないかと思えます。
感情もシャープで冷静というのではなく、
常に全体を把握しながら、悩み、もがくというよううな感じで、
自分のことと相手のことを考えにいれながら、
悶々悩むという感じです。
だから羽生さんの顔には悩んだ分だけの深さがあります。
そして、渡辺さんとの決定的な違いとして、
悩むけれど執着しないという潔さが、
顔に顕われていているので
羽生さんには清々しい透明感があります。
渡辺さんには、そこにまだ壁のようなものがあるように
みえました。
渡辺さんの頭の中はとても整理されていて聡明ですが、
しかし悩む幅というか、その脳のインパルスの往来が
かなり限定的なようにも見えます。
それに比べ羽生さんは悶々と悩み
一見くだらないことのように見えることにも悩み、
その繊細な神経を、脳の隅々まで使って解決しようとする脳のように、
見えます。
つまり羽生さは、渡辺さんよりドンくさいのです・・・苦笑!
しかしここに羽生さんの強さがあると私は思います。
つまり悩みがひろく、深く、複雑で、
それを繊細な感情でアレコレと頭を巡らして悩むところから
羽生さんの思考の深さや幅の広さがうまれる。
さらに、脳全体を縦横に行き交うインパルスは、常に
●脳全体を駆使して考察が行われているということにも
つながります。
それはまさに、スーパーコンピューターの世界です。
コンピピューターでいうと、1と0の二進法で解決していく
普通のコンピューター、
つまり限定された数字の条件のもとに情報処理していく脳と
<無数>の可能性が、量として一斉に立ち上がる、
スーパーコンピューターの脳の違いがあり、
そこに、他の名人級の人達との脳の差としてあるかもかもしれません。
つまり脳全体が一シンフォニックに立ち上がっていき、
やがて全体を俯瞰しながら、勝ち筋がみえてくると、
いう訳です。
人間の脳は、どうしても偏っていきます。
そしてそこにはシリーズその3で書いたように
たくさんの不要なゴミが山のようにあるからです。
しかし、
羽生さんのように、繊細な感情で悩み、さらに
そこから深く深く、広く広く、
最も本質的な解決を図っていこうとする人は、
悩み苦しんだ末に、不要のものをどんどん捨てていきます。
するとその分ゴミがとれた中で、
脳がまんべんなく使われているということにも
なるのです。
さらに大事なことは、このシリーズその2、3でもかきましたが、
悩む中でも、
●自我のネガティヴな欲や感情を
●意識的に排除していくという
●自己純化の●自己葛藤をやり遂げていくことです。
そしてそのベースには勿論、
自分を分析、解体する作業を、
やり遂げていくことです。
※なぜならそのネガティヴな欲望や感情こそが
●自分の迷いの心理の原因や動機なってしまうからです。
その自己分析と自己葛藤をやり遂げながら、
脳の中を掃除し
自分を純粋に、<無>へと図っていく人は
脳の中もどんどん正視水明になっていくのではないかと
思います。
つまり、
●最も優先されるものは何か、
そして
●何を捨てて何を保持していくかが
・日々検証、実行される中で、最終的には
・自動的にそれらが会得されていくということです。
悩み苦しむ中で、そのことが脳全体を駆使して、
訓練、鍛錬されて行く中で
脳がシンプルに、簡素に、俊敏に機能しだすのではないかと
思います。
※これはフロー現象にも通じるものだと思います。
そのことにいち早く気づいたのが
鎌倉時代の僧、道元ではないかと、私は思います。
道元は<正法眼蔵>の中でそのことを、
<全機>という言葉で語っています。
<全機>とは、簡単に言えば、
自分の全体を作動させて生きることであり、
自分の全体が作動することは、
外的世界もその全体が連鎖、連動して在る!と
いうことです。
※道元のこの世界観こそ、脳の世界を先取りして掴んでいます。
そのことはまた機会がありましたら、書きます。
脳と体とはいつもその全体でいきている、にも関わらず、
人間はいつしか、偏っていってしまう。
脳の偏り、体の偏りが、全体で生きることを阻み、
そこに苦しみや悩みが起きて、さらに
偏っていく。
し・か・し、
●偏りだすと、全体が使えなくなるのです・・・!!
つまり視野がせまくなり、偏ってしか見えなくなるし、
感覚も偏って感性も歪んできます。
さらに外的世界をどういう風に認識、認知するかということも
主観的な思いこみがどんどん進行してしまいます。
さらに、つまらないことばかりに偏っていくと
そこには狭小な世界が、ドンドン強化されて行くしかな~い!
なぜ偏るかというと
されは、人間の脳の中にゴミが溜まるからです。
そのゴミがどんどん優先され、迷いの原因となり
人間の生きることが失速していくしかない。
そのゴミをいかに排除するか・・・?
その方法の一つとして
道元は徹底的に<生活する>ということを
徹底的に簡素にし、様式化、或は形式化していきました
<生活する>ということを、様式化、形式化し
それが厳しい修行の中で自動化されて行きます。
その上で座禅のよる心身の集中の中で、雑念が脳の中を往来していくのを
取りのぞいてゆく、ということをしました。
つまり殆どの雑念は、考えなくてもいい、どうでもいいことで、
そういうことに煩わされないために、日常生活を自動化する。
つまり脳をもっと高次に使いこなすためには、
末梢のことなどに神経を使わない、という風に
脳をシステム化しようとしたのだと思います。
これはイエスも
「だから、言っておく。
自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、
また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」
と言っています。
日常生活の多くは、●本能的次元のことが多く、
そういう日常の凡俗的なことばかりに頭を使って
自分のエネルギーを浪費せず、
もっと効率よく、賢く知恵がうまれるように
脳をシステム化しなさい!
ということですかね~。
ともすると私たちは、最も頭を駆使して考えなければならないことには
気づかず、
どうでもいいことに神経をつかり、悩み、自分を消費していきます。
そういう意味では、
羽生名人の<捨てる>という判断と行為の根源にあるものこそ、
彼自身が悩む中から見えてきた、彼が必要ないと結論づけた
諸々のことでしょう。
おそらくそのことの根源を突き止めながら
彼自身が自分の心理を分析し、
自分の迷いの動機にあるものを凝視しながら
そういうまよいを起こす手筋を捨てていったのかも
しれないと思います。
そこにあるのは、突出した才能とかシャープな感覚ではなく、
むしろ、ドンくさいまでに、自分の弱点を突き止めていく努力では
なかったでしょうかね~。
次回は、そのことも含めて<非凡>ということは
どういうことであるかを
今度は家康をモデルに書いていきたいと思います。
勿論信長もでてきますよ・・・乞うご期待!!
皆様ありがとうございました。
今、4号に向けて準備中です。
どうぞご期待ください。