私の仕事、その6、時代の不安とどう向き合うか!その2 |
今の時代の不安とは何かを、しきりに考えている。
そして、浮かんできた言葉が
「何かに連れて行かれそうになる不安がある」という言葉が
浮かんできました。
それは日本社会が、
なにかとても恐ろしいところへ連れ込まれる、或は
突っ込んでいってしまいそうな不安でもあり、
そこには個人の力ではどうしようもない無力感が
漂っています。
しかし
その不安を乗り越えるには何をしたらいいかを
私は夢を見ながら考えているのです。
ただ、あまりにも考えなければならない要素が多く
そして考えなければならないエリアがだだっ広いために
何から手をつけていいかに私は戸惑っている。
ひとつの不安は、昨日も書きましたが、
明治以来の西欧との同化を目指して来たこの100年の日本が
日本の本来の根(アイデンティティー)を失っているということだと
思います。
明治維新以来、西欧化をめざし、国民国家へと変容することで
他のアジア諸国とは違って
西欧列強による植民地支配から逃れることはできた日本ですが、
その一方で軍国主義へと硬直してしまい、
第二次世界大戦で敗戦し原爆を浴びました。
その後戦後の復興と高度経済成長期を経て、さらに
IT情報時代へと突っ込んでいったのですが、
はたして今の日本という国に、
根っこはあるのでしょうか?ないのでしょうか?
それともあるけれど、隠れているのでしょうか?
断っておきますが、私はナショナリストでも右翼でもありませんからね。
私がいう日本の根っこというのは
そういう感情的で感傷的なものなんかじゃ~
ありません。
これもほんとうに雑駁な分け方で申し訳ないのですが、
私の眼には今の日本には、二つの勢力というか、おおきな流れというか、
そういうものが見えてきます。
そしてその二つが日本の中でせめぎ合いをしているように見えます。
せめぎ合いというより、お互いそっぽを向いているかもしれないのですが。
ひとつはITやAIを中心にする流れです。
もう一つはコミケや、おたくと呼ばれる人達がカテゴライズしている
流れです。
ITやAIのエリアにいる人達の眼差しとビジョンは
世界及び世界市場(グローバル市場)へと向けられているように思います。
反対にコミケやおたくの人々の眼差しは、個人及び、日本の内面世界へと
向けられており、それはまことにコアで限定的なエリアでの
活動のように私には見えます。(もし間違っていたらごめんなさい)
その狭間に、私のような、どちらともつかず、
もしかしたら時代遅れかもしれない人間が、
まごまごしているように
思います。
ただ、その時、これも私の一人よがりかもしれないのですが、
ITやAIのエリアにいる人達ははたして、
世界の中に同化しようとしている反面
日本という根っこをもっているのだろうか?という疑問が
私には湧いています。
逆に、コミケやおたくの人達には、
明らかに日本という根っこが見えます。
もしかしたら、逆にそれが縛りになっているかもしれません。
つまり、彼らの中に現代に対する、或は世の中に対する、
反感や抵抗や批判や拒否などを、私が感じてしまうからです。
しかし、それこそが、実は、現代の日本の姿の本質的な問題を
そのまま表していると私は考えています。
それは表面的なことではなく、
日本を深く掘り下げた時に見えてくる、
とても重要なことのように
思います。
つまり、彼らは何に対して、抵抗し、批判し、拒否をしているのでしょうか。
そこに現代の日本の根底的な答えがあるようにも思えるのです。
それは我儘な世間知らずのという、レベルの事なんかではなく、
むしろ、
日本人と日本社会が取り込まれている、
先進諸国のグローバルな世界観の偽善性や、
※つまり自分達こそ優れているという優位性の下に
グローバル化をやろうとしているという偽善性です。
さらに
アメリカを中心にした金融経済、つまり博打経済が産みだす、
株価の上下で実体経済の6倍ものお金が取引される、
如何わしい経済の中に
巻きこまれ、
せかせかと忙しく、いつも競争に明け暮れ、さらに、
いつバブルがはじけ、崩壊するかわからないというインチキさと
距離を取り
現代の現実にそっぽを向き、
自分達のカテゴリー世界で砦を造っているのではないか・・・?とも
思うのです。
それを悪いと思ってしまうと、もうそこからは何も見えてきませんが、
そこに、なにか意味が隠れていると思うと、
そのことはとても重要な因子にみえてきます。
つまり、生産性は薄いけれど、自分達がやりたいことや、
欲しいものを手に入れる。
競争で追い立てられるではなく、
自分達の歩幅で歩きたい。
マジョリティーな社会で生きないけれど
自分たちは自分達を囲い込んでだ城、或は村の中で生きる、
ということの深い意味です。
確かにそこはコアでマニアックな世界でもありますが、
いかにも日本人らしい思いやりや謙虚さも見られ
さらに自分達で決めた規範を彼らはもっています。
このことを大きな歴史のスパンにおいて見てみると
明治以来の西欧化でそれまでの徳川幕藩体制から
国民国家へと服を脱ぎ変えた日本ですが、実はその先に
軍国主義がどんどん精鋭化してゆき、
人文文化が後退し硬直した結果、
昭和の戦争で大敗北しました。
それは軍部が天皇を政治利用して暴走した、からだけでは
ありません。
それは、2000年余以上不連続に続いていた
日本の文化が、硬直したからです。
西欧のエネルギーに追いつき、追い越すために
西欧の真似をし、疑似西欧化した日本が勘違いし、
自分の文化をおろそかにして、
列強と同じく、強い日本を目指したからです。
つまり日本は、日本という特殊さや、
本来は多様性にみち、たくさんの方法論をもっており、
それが竹の子の文化のように地下茎で繋がっていました。
お互い様、お世話様、という結びめの中に、緩さがあり、
なんとなくのおかげさまの文化がありました。
西洋キリスト教の国のように一本化されず、
神の一元的絶対支配ではない
八百万の神々の国の文化です。
八百万の神様たちは、ありとあらゆるところに寄生しながら、
神でありながら時に怠け者でもあり、
ズルをしたり、サボタージュもする神様です・・・笑!
私は歴史学者でも社会が学者でもないの
旨くその辺のことが詳しくは書けず、
すみません。
少なくとも私の子供の頃は
子供は日が暮れるまで群れをなして遊び、
遊びほうけました。
今みたいに
勉強や塾で囲い込まれ、縛り上げられるようなことは
ありませんでした。
中学でほとんどの子供は就職し、
その仕事も千差万別にいろいろな分野に
散らばっていきました。
そういう多様性が
文明の進歩ととにも
消えてゆき、便利さや生産性が優先され、
その一元的な価値の中に
日本の多様性の文化は少しずつ窒息していったように思います。
こうして過去を振り返りながら考えてみると見て、
どうも、現代の日本には、日本のアイデンティティーという
足があまり見当たりません。
反対にあの大敗北にもかかわらず、日本は相変わらず
列強先進諸国の端で肩を並べています。
このままいくと
明治以来突っ走って硬直したように
また日本が硬直してしまうのでしょうか?
危ういです。
しかし私はそうは思わないのです。
先日聞いたラジオでは、
楽天の偉い人らしいひとがが
もしAI産業がはじまったら莫大な利益を産むと
自信たっぷりに言っていました。
それはそれでいいと思います。
それはそれで頑張ってほしいです。
しかし私は少し首を傾げます?
その時
人はどうなるの?
人は置いていかれるの???
人の心や体はどうなるの????
確かに医学の水準はものすごく高くなり、
延命率もあがるとおもいますが
でも
それがほんとうに人間の望むものか、
幸福へとつながるものなのか、
そこらへんはまだまだ私に分かりません!
ただね、そんなAI産業とは別に
もしかしたら、日本の窮地を救う、
いかにも日本人らしい、日本の方法論をもった
優れたものが日本にはあるのです。
それは日本の若者達といつても、もう皆さん随分お歳になられましたが
その方々により戦後、漫画を先頭に
日本の土の中からニョキニョキ頭を出してきた
日本のサブカルチャー群です。
それは日本独自の新しい文系の文化ですが、
そのベースは江戸の浮世絵や大衆文化でもあり、
もっと遡ると平安の今様でもあり、もっと遡ると
万葉や神話の世界からずっと地下水道のように流れている
日本人の感性と感覚と気質と快感(心地よさ)が
様々に形を変えては湧き出て来る大衆が作り上げる文化(事)と物です。
そこにはエネルギーのマグマが潜んでいます。
そのマグマは、もしかしたら、戦後教育で傷つき、
世の中に対する、反感や抵抗や批判や拒否などを
自分の内部に抑圧させていた若者達のマグマへと
トランスポートされているかもしれないのです。
それは
中心ではない、サイドから生まれてくる草の根的文化です。
以前にも書きましたが、
日本の書院づくりや華道や茶道やそして日本庭園は
応仁の乱で中心にいる人間たちが争うのを横眼で見ながら
サイドで生きている棄民の中から生まれてきました。
なんだか現代の日本社会はもう足が失われたように
思えていたのですが、
ところがどっこい、中心ではないが
もしかしたら、周辺のあちこちの、脇きから生まれてくる
サイドの創発的エネルギーがあり、
万が一のばあい、
つまり冒頭で書いたように
アメリカをはじめ世界を強引に運転しようする諸国に引きづられて、
恐ろしいところにつれこまれそうになり、
もうアウトという間一髪のところで
俺のはアンタたちとは違うな~という風に
※これはテレビドラマ「臨場」の倉石検視官の台詞です・・・苦笑!
そのサイドの文化に救われるかもしれません。
その時、
今までは現代の先進性にそっぽを向き、さらに
自分達独自のカルチャーの砦の中にいた人々の中から
さらに
もう既に土台が出来上がり、芽をだして実を結び始めた人達の中から
世界の中心とは繋がっていなくとも、
別の次元から力強く
サイドで絆を作り上げていくエネルギーが登場するかもしれません。
それは経済的に莫大な利益とはまではいかなくとも、
日々暮らすに足りる経済と充実をもたらす可能性があります。
しっかりと日本の土台の上で、
事と物とが結実した文化です。
いったいこの国はどうなるのだろうと
私は心配しますが、
でも私もそうは長くは生きていられない。
しかし、でも、この国の底辺では、やはり
日本らしい息吹がいきのこっていました。
それはマイナーな暗黒の中に息をひそめながら
地上へだした眼玉で現実を探っている目でもありましょう。
しかし、それでいいです。
そここそは、安直に軽々しくない確実なものが
蓄積されているだろうと、私は確信しています。
つづく!
もう少しお待ちください。