人は優しい! |
そしてあることが引き金になり、
私は自分の心の中がセメント板のようになり、
その奥で、
小さな水たまりのような哀しい感情が、
ぐいぐい私を無力感のなかへと引きずり込んでいきました。
私はじ~っとソファーすわったまま、
動けなくなりました。
それでも、私は一方で理性を手繰りながら、
だれか、それも私のことを
理解してくれていそうな誰かに電話して、
頭の中のスイッチを切り変えなければ、
そのために誰かに
助けてもらわねばと思い、
親友のOさんに電話をして
事情をはなしました。
そして
Oさんの温かい言葉を聞きながら、
深い井戸の中にいる自分をゆっくりと引き上げ、
少しずつ自分のエネルギーが立ち戻っていきました。
Oさん本当にありがとうございました。
まあ、ドストエフスキーの本を何冊も読み続けたことも
あるかな~?
そこには、愚かしい、救いのない人間の姿を
これでもか、これでもかとドストエフスキーが
書き連ねています。
おそらく、ドスエフスキーも狂気寸前になりながらも、
書きぬいたのだと思います。
そしてこれはもうこのブログでも何回も書きましたが、
そういう葛藤と格闘の中で、
彼が見つけた光は、
最も謙虚になること、
小さな愛のせかいを信頼し、
人間を愛そう、ということのように
思います。
今、私の頭には、
現代の過剰になっていく文明に対する
不安や恐れがあります。
その過剰な文明は、
人間を過酷な労働や危険から解放することもありますが、
しかしもう一方に人間の果てしない欲望も潜んでいます。
欲望というか、
人間の心の欠損や、
フラストレーションを満たすための
依存や甘えの
欲望です。
そのことが、
もう人生も残り少ない私にとっての
杞憂の気がかりとしてあり、
そういうことを一方で考えつつ、
さらに、
日々の中で襲ってくる世俗的な情報にも
私は脅かされています。
それでもなんとか、人間を信頼し、
希望を探そうとするのですが、
どうにも神経が疲れ果てていたのでしょう。
私はどこかで、自分の絶望感や無力感を
受け入れてしまいました。
それがあることを引き金に
自分の負の妄想と結びついてしまいました。
負の妄想として思い出したのは、
私の50代に経験した、とても悲しい出来事です。
それは、
私が自分の愛情を注いでも、
その愛情や思いが伝わらず、へし折られた現実があり、
その時味わったとても残酷な体験を思いだして、
その時の無力感や絶望感の感情が、
フラッシュバックしてきて、
頭の中を占有して巡り始めました。
さらにいけないことは、
私は自分を検閲し、
そして過去をほじくり、
自分の過去を否定的なベクトルだけで
自分を追い詰めてしまいました。
しかし、
当時は私は若かったですから、
その時の無力感も絶望感も、
ちゃんと理性で分析して
それも私自身の未熟さの
人間観や社会感の甘さが原因であっとして
自分の中のエネルギーを
奮い立たせ乗り越えてきました。
ただね、その時味わった心の傷は、
今も残っていたのだと
思います。
だから、今回、自分の中に
人間に対する信頼感がゆらゆらとブレだし、
人間不信の井戸の中に落ち込んでしまいました。
そして、私は歳をとってしまいました。
だから、再度自分を奮い立たせる気力が
そのエネルギーが少なくなり、
もう、萎えてしまいました・・・喝!
もうお分かりだと思いますが、
私自身は、
そういう否定的な自分とそのベクトルを
いかに
肯定的自分へと向き変えていくか、
そういう戦いをし続けてきた人間です。
そして、私自身を実験台にして、
知識を学び、自分を観察しながら考え、行動し、そして実際に
自分を大きく方向チェンジすることを
果たしてきました。
そして、私は、そういう私の知識と経験を
なんとかお伝えしたいと
このブログを書いて来ました。
※今回、落ち込んで動けなくなっている私をみた娘が、
なぜ自分の過去を、
その体じゅうで生きてきたこれまでの自分を
ちゃんと評価しないのか・・・と
怒鳴られました・・・苦笑!
いつも自分が書いているのにね・・・苦笑!
人間の神経は、とても繊細です。
ちょっとしたことで不信や疑心が起きると
もう、ドンドンそれが拡張していきます。
そういうマイナスのホルモンが体を
支配してゆきます。
人間はいつも、
信頼と不信の間をシーソーのように
ギッコン、バッタンして生きています。
生きることは、様々なことに直面し、
様々な人間に出遭い、
その難しい、困難な関係に
直面せざるを得ません。
そして人間はいつも一人でそれに向き合うしかありません。
誰もが、そんな生きることの困難さの中を
懸命にいきているのだと
思います。
ただ、今回、もう70歳にもなるのに、
そして様々に乗り越えてきたのに、
ちょっとした人間不信の一滴で、
私は、そこに引きずられてしまいました。
でも、それも、
私が人間だからということだからだと
思います…笑!
今回のことは、
私が最後に乗り越える浪であったように
思います。
これも私の一つの転機です。
だから
そして
ささやかに人を信頼し、
ささやかに優しく、
人を愛していこうと思います。
優しさで他者と
繋がっていこうとおもいます。
最後に私の言いたいことは、
イ・チャンドン監督の映画
「シークレット・サンシャイン」の中のシネさんのように、
苦しいときは、
「助けてください」と人にお願いをすることだと
思います。
そしてひとは
優しいです。
人間は
優しいです。