真実の水。 |
その芸術性に驚かされた。
それは、壮大な舞台芸術を見ているような観があった。
人間の心の世界に住むさまざまなパーソナリティ。
グレートマザ-、老賢人、アニマ、アニムス、トリックスター
それにシャドーなど。
まるでおとぎ話の中に出てくるキャラクターのようだ。
同じドイツのフロイトなんかと比べると
格段の差がある。
一人の人間の中に多様な形で生きている人格達だ。
それらのパーソナリティが綾なしながら
パノラマのように
私たちの心は作られている、と
ユングは言っている。
現代の心理学はもっと進化していて
今では、ユング心理学は古典となってしまったが、
これらのパーソナリティ、
(ユングは、原型、アーキータイプとなずけている)
がくり広げる世界を分析するときは、まるで
シンフォニーを聴きながら
同時に濃厚なドラマを見ているような観がある。
その人の人生の物語と
それを彩る音楽とを
同時に味わっているような
ダイナミズムがある。
人間の中には様々な人格が住んでいて、
時としてその一人に心を乗っ取られる。
このことについては、河合隼雄著
「影の現象学」が面白い。
影に乗っ取られた人間の心が書いてある。
私の周りでもシャドーで生きている人は
たくさんいる。
うらみつらみに取り付かれて。
しかし、シャドーの人に魅力的な人が多い。
グレートマザーで生きている人もたくさんいる。
このタイプは圧倒的にオバンに多い。
人によっては、
ほんの数人のアーキ-タイプでしか
生きていない人もいる。
ほとんどが無難に生きている、
ツマンナイ人だ。
昨日も書いたが、
自分全部で生きようと
自分の中に住むこれらのパーソナリティを
自由に解き放った時こそ
壮大な芸術が生まれる。
幾重にも重なり綾織りなす、
これらの人格が作り出すドラマの豊穣なる事、
また人生の深くて大きいことに感動する。
貧相に生きようとすれば貧相に、
豊かに生きようとすれば、
いくらでも豊かになる。
言っとくけど、それは
倫理とか道徳とか社会常識常識なんてものに
捉われていたら不可能だよ。
そんなものを越えて人間を見るんだ。
大きな、大きなスケールでね。
芸術は面白い。
芸術は美しい。
芸術は、
真実の水です。
私は毎日このおいしい水を飲みながら
生きている気がする。
付録
これを書きながら
思い出した映画がある。
スウェーデン映画、イングマール・ベルイマン監督
「ファニーとアレクサンドル」
最後のシーンで、ストリンドベリーの詩が朗読される。
何でも起こりうる。 どんなことでもあり得る。
時間にも空間にも 縛られず
想像の力は 色あせた現実から
美しい模様の布を つむぎだすのだ。