慈悲の遺伝子。 |
(心の深層にいる子供時代の抑圧された自我)
すっかり鳴りを潜めてしまった。
おかげで感情的な反応に振舞わされることも
あまりなくなり、
逆に他者への共感や優しい気持ちが、
自然に沸いてくるようになった。
あの時、世間に迎合すべく
インナーチャイルドを無視して、
仮面をかぶり続けていたら、
こんなに穏やかな境地には、
これなかったと思う。
やれやれ。
先日娘の愛ちゃんと衝突した時
彼女が傷つくことを承知で、
ほんとうのことを言った。
そのとき彼女の顔が、一瞬にして、
なんというかいわゆる悪魔のような、
動物的な、本能むき出しの顔になった。
それは、
彼女の深層の大いなる自己のところでは、
自分の非を承知しているが、
表層の感情的な自我がどうしても
相手の言葉を受け入れがたい。
そのとき一人の人間の内面で起こる、
自己と自我の葛藤が
あのような、
なんともいえない苦しみに満ちた表情になるのではないかと
私は思っている。
おそらく、悪魔とか鬼とか魔物とかの表情は、
もとは、人間のあがきや、もがき、
のたうち廻る苦痛などが表現されたのだと思う。
そして、自分の中にあるその苦しみを受け入れる事が
ドンナに困難な事であるか・・・。
指摘された非を受け入れることが、
時には相手に敗北したように感じることもある。
だから大人になればなるほど、
人間は上っ面の浅いところで関係しようとするのである。
自分の中のそのネガティヴな感情の虜になってしまったとき
心の奥のほうにいるすべてを知り尽くした
大いなる自我が
良心の言葉をかけながら。、
深い深いところから時間をかけて私たちを救いにくるのであるが、
それでも、
あまりにも深く傷つきすぎた自我は
その最後の救いの手(良心)をも無視して
悪へとつっきっていってしまう。
或いは居直って自己を正当化しようと画策する。
本当はごめんなさいの一言から全ては開かれるのに。
こう考えると、
人間とはなんて悲しく苦しい存在かと思う。
もしかしたら紙一重で、
私も傷ついた自我に乗っ取られて、
取り返しのつかない罪を犯したかもしれない。
しかし生命か科学では
慈悲の遺伝子も見つかるかもしれない、
といっています。
そうだといいね!。
いや、私はきっと見つかると思う。
なぜなら、
人間はみんな
素敵に生きたいと、
今日はだめでも
明日こそ、
いつかはきっとと思って、
生きているんだと信じています。
その後愛ちゃんは、すぐ自分の非を受け入れて
とてもすがすがしい顔になりました。
めでたしめでたし!