違和な現実! |
「じゃりんこチエ」の花井牽骨先生。
わたしの憧れの人です。
朝ごはんの時のうちの大社長と
よもやま話。
今は就職試験のシーズンですが、
頭の中に直感的に浮かんだイメージを言葉に代えると、
どうしてもその何分の一しか伝えられない。
つまり頭の中よりずーとやせた形でしか伝えられない!
イメージに論理性が入ると
それがまた邪魔する・・・。
だから「絵」にするといいんだけれど。
「絵」にすると
そこに説明しようとか、或いは解らせようとか、
逆に解ってもらおうとかの、
色気が入る。
そして又、
中身がどんどん貧相になる。
そう考えると内藤瑤子さんはは凄いね!
余計なものがぶっ飛んでいるから、
モロ、ストレートに、
イメージが迫ってくる。
今まで彼女ほど凄い人は見たことがない。
でもこういう右脳型の人間はなかなか組織に適応できないから、
今の就職試験では、みんなはじかれてしまう。
共通語を持っていないし、
あつかいづらいからさー!
惜しいこったねえー。
私だったら喜んで採用するのにねえー。
もしかすると就職できなくているヤツの方が、
将来は頭角をあらわすかもしれないねエー。
あらわさないとしても、その人間に見えている世界は、
おそらく何かの真実を語っていると思うけどネェー。
イタリーを旅行したとき、
フィーレンツェのウフィッツィ美術館で、
ボス・ヒエロニムスの絵画展をやっていた。
怪奇、不可思議な気味の悪い絵だったが、
その中に、「飛行船」のようなものもあり、
16世紀ルネッサンスの頃に、
もうこんなことを思いついていたのかと、
感心しました。
うちに来る絵画個展のD・Mを見ていると、
最後の詰めのところで、
ちよこっと余計なものを付け加えている、
惜しいものもあり、
これがなきゃ芸術性があるのにと思うものがよくある。
対象の本質だけをさらけ出すのが怖いから・・・。
どうしてかというと、
見るほうがそれを見たとき、決して快感ではなく、
ときには不快感を催し、
顔を背けたくなることもあるからだネ・・・。
こういう絵はなかなか売れない。
少しヒューマンなところ(ちょっとヌルイところ)をつけといた方が、
売れるし、受け入れてもらえやすいんだね。
だけれども、目が肥えてくると、
このごまかしがきかなくなる・・・。
自分の受け体勢が入れが定まると、
厳しいいほうに心が引っ張られていきます。
そう言うモンです。
最初のうちは、似たもの同士が無難で
何でもスムーズにいき、やりやすいけど、
モノが煮詰まって、レベルが上がってくると、
その馴れ合いの枠を突破するのにどうしても
違う「血」が入らないとだめになる。
そんな時自分たちとは違和なものを受け容れる社会は
生き延びていけると思います。
この話を書いているとちゅうで、
息子が自動車事故を起こしたとの事で、
旦那もろともテンヤワンヤとなりました。
幸い車が半分ペチャンコになったけど
軽い打撲らしいのでヤレやれ・・・!
ぐっと疲れました。
こちらもいきなり飛び込んできた、
「違和な現実」を受け折れるのに
四苦八苦です。
人間、予想もしないことのぶつかると、
体も心も動揺して大変です。
つくづくと、
「じゃりんこチエ」の花井拳骨先生のように、
何があっても泰然自若としていられるように
なりたいなーと思いました。
私も「違和」を受け容れなくちゃネ・・・!
そういうわけで今日はこれまでに・・・!