昭和に生まれて! |
こんな時になんですが、
日頃疎遠になっている親戚に久しぶりに会い、
昔話に花が咲きました。
これで八人いた母の兄弟は、
母と末の妹の二人になってしまいました。
母の実家はおじいさんが外国航路の航海士で、
最後は門司港の海運会社の重役までしたのですが、
そのおじいちゃんが亡くなったと同時に破産して、
兄弟みんながばらばらに離散しました。
あんなに豪勢な暮らしをしていたのに、
お嬢さん育ちのおばあさんが一切蓄えというものを
していなかったからだそうです。
その中で、叔父は東京出てきて随分苦労をしたそうです。
自分の出自のことは一切語らず、
まわりの人間は叔父の子供時代のことは
何一つ知らなかったとのことでした。
私が知っている叔父はいつもニコニコ笑って口下手でした。
胃を全摘出する手術を受けたそうで、
おそらくじっと我慢の人生だったのかなと思いました。
最近、永井荷風の「断腸亭日乗」を読んでいますが
大正、昭和の時代が、
自分がちいさかった頃と重なって
とても懐かしいです。
母からは、
高台に住んでいたおじいさんが
望遠鏡で門司の港を覗き、
船が入ったら出勤して行った話、
女学校に弁当を忘れていったら
おじいさんの書生さんが届けてくれたこと、
戦地から船が帰ってきたら
女学校の生徒全員で港に歓迎に行き、
そのとき手や足のない負傷兵を見るのが怖かったなど・・・。
色々聴きました。
私達一家は門司市大里の山の上の
バラックのような、
傾きかかった家に住んでいました。
近所には
子供が大勢いて、
みんなで団子になって遊びました。
ちゃんばらやままごと、お姫様ごッこ
缶けり、けんけん カゴメカゴメ、などなど・・・。
そして近くの池にめだかを掬いにも行きました。
近くの川でオバサンたちが洗濯しており、
共同の水道で水を汲んでいたことも覚えています。
そのうち各家に水道が引かれ、
やっとお風呂場ができ、
何軒かで共同に使いました。
お風呂場を建てるとき、
近所の叔父さんがみんなでコンクリートを練り
こてを使って鉄だかなんだかの風呂がまを
固定しました。
もちろん燃料はマキで、
交代で火をおこして風呂番をしました。
思い出そうとするといっぱい浮かんできて、
弟を背負いねんねこを着た父親と
一緒に市場に行き、
ラムネを買って呑んだことや、
夜の暗い道ををビンを持ってお酒を買いに行ったこと。
当時はますで量ってお酒を売ってくれました。
紙芝居屋さんが来たり。
飴売りが来たり、
ぽんぽん菓子屋が来て、
お米を持って行きポーンと破裂させて
お菓子にしてくれました。
そうそう麦こがしとか、
カルメラなんかも食べましたね・・・。
みんな着たきりすずめで、薄汚かったけど、
楽しかったねえ!
夏は瓜を井戸で冷やして、
トマトは木からもいで
真っ赤に熟したのを食べました。
子供の中には磁石を使って鉄くずを拾い集めて
小銭を稼いでいていた子もいて、
一円で飴が二個買えました。
海に行ってざるいっぱいの二ナ(小さい巻貝)を取ってきて
おヤツに食べたり
海ほうずきを口に入れて吸ったり・・・。
思い出すときりがないけど、
大きな時代が完全に終わろうとしているのを
感じます。
戦後の
なーんにもない所からの出発で、
でも子供達はけっこう楽しく遊んでいた。
今日は
あの頃が懐かしくて、懐かしくて、
波乱万丈だった叔父の人生を悼みながらも
昭和に生まれたことが何となく
うれしい・・。
そんな気持ちになりました。