アートの定義。 |
アートの定義があやふやで、
何となく掴んでいるのだけれど・・と思っていたら
最近その定義がかなりはっきりしてきている。
今日来たDMを見て、はっきり
「これはちがうな。」と理解したからである。
しかしことわっておきますが、
あくまでもこれは私の独断と偏見が入っています。
今日届いたDM には複数のアート作品の写真が
載っていたが、どれにも心惹かれず
逆に作品の中にある邪気というか、自我の汚れのようなものを
感じてしまった。
作品の中に邪気や汚れがあっても
それが何らかの格闘の震えや
おぼつかなくとも前へ進もうとしているような時には
心が動く。
逆に定着していたり、
そこで固まって固形化している邪気には
何の魅力も感じない。
最近よく頭に浮かぶのは
アートは文脈のない思想、とか
アートは文脈のない思惟とか・・・の言葉で、
ただ感情をぶつけたり、
細密や緻密な作業の作品や
つらつら・・と表面をなぞっているだけのものには
そういう思想や思惟がない。
そういう思想や思惟の根元には
生まれてきてしまった自分の戸惑いを
どうしたらいいのかという
日常的な問いかけがある。
それはかなり厄介で
簡単に答えがだせないし、
なかなか線や形になりえないで
霧のように頭を巡る。
普通の人はその根元はなるべく見ないで
やりごして生きてるが
アーティストはそこをよける事ができない。
それはアーティストの宿命のようなもので、
石のかけらを入れたれたあこや貝が
のたうちまくって石から真珠を作るように
アーテリストの頭とカラダを巡りながら
少しずつ形や線や色や立体・・というものに
具現化されえていくのだとおもう。
私達は
言葉というものにあやつられながら
人生を形づくる。
動物的本能だけではなく
言葉というものを獲得してしまったツケは
本能を凌駕しなくては生きれない・・という
不条理の中に嵌められた。
今の世はアートが溢れアートだらけの町のなかで
しいて私は
思想や思惟やメッセージや”おもい”のないものは
アートではないと
思っています。
そしてなお
それが
自我の汚れをなんとかふき取ろうとしている
生きることへの
真摯なる心ねが水に写る美しさのように
作品から響いてくるものでなければ、
アートではなく
自我の排泄物・・・と思っています。
まあなんとも難しいことですが
作品を見た時の自分の心の透明感に響いてくるものが
そうだと思います。
そのためには
極力自分の自我の汚れを
ふき取らなければ
なりませんね。
ふき取らないとね・・・。