消費されない芸術。 |
大衆に消費されるアートのことを聞いた。
そして先日ゲイサイに行った時
いみじくも同じ言葉を息子が語った。
彼によると
消費されるアートとは、
チラッと通りすがりに見られてそれで終わりにされる。
または共感されるけれど深い共感ではなく
いいじゃない・・とごく短時間で観賞が終わる。
作品の中、或いは深さまでかかわらなくていい。。。
表面的な共感はあってもそれが持続されず、追及もされない、
それが消費されるアートと言うのらしいんです。
そういう、大衆の気分のところで消費される作品と
きちんと個人の内面まで突き刺さる作品はどう違うのか・・?
それはとても難しい事ですが、
頭の中でイロイロな芸術作品を思い浮かべてみると
ひとつ思いあたることがありました。
それは”人間賛歌”と言う言葉で、
消費されない作品にはどこか”人間賛歌”があるような気がします。
”人間賛歌”というと、トテモ臭い言葉にも聞こえますし
いわゆるヒューマンな作品のように誤解されそうですが
たとえば絶望で人間を全否定していたり、
トテモ攻撃的な狂気にみちていたり・・・していても
その作品の深層の根底にはやはり
人間への希求が潜んでいる。
それは希求があるからこそ絶望したり、
攻撃的だったり否定したリするのであり、
希求がまったくない人は
そういう反応すら起きないでしょう。
できたらよけて通りたい作品も
あまりに暗い深淵がぱくりと口をあけている作品も
あかるすぎて違和な作品も
キット消費されないでしょう。
適当に近づく事が出来る作品は
きっと消費されておしまいでしょう。
そこにはどんな事があっても自分を捨てきれない
深い悲しみがあるような気がします。
人間と現実に裏切られ続けても、
人間不信がぬぐってもぬぐっても出てきても
どうしてもあきらめきれず
心の深いところに潜航して生きてる最後の人間への希求・・・。
そういうものがあのゴッホにもピカソにも
そしてモーッアルにも私の好きなシューベルトにも
あったのではないかと思います。