M1グランプリ・カウス氏のすごさ! |
やっぱりダントツにスゴイのは
中田カウス氏だと・・・。
彼の視線はなにを見ているのだろうと。。
わたしのかいかぶりかも
知れませんが・・・(笑い)
確かに漫才の技術やその熱意や熟し方から見ると
やっぱりノンスタイルが一番妥当だと思うが
カウス氏はオードリーに入れた。
私もノンスタイルが優勝であることに
異論はないが
しかし、オードリーのネタがもつ革新性に比べると
ノンスタイルはやはり古い。
その辺の、
常に前衛性を持って
新しい地平を切り開き
先頭をはしる・・という視点から審査を
しているのは
中田カウス氏と大竹まこと(?)だけかもしれない。
おそらく松本人志もその辺のことは
よく解かっているかもしれないが、
カウス氏ほど冷徹ではないかもしれない。
ましてや馬鹿いじりに興じてプロデユーサーに
成り下がっている紳助などにはもう
そういう自分を超えて行きそうな奴に
点を入れる能力すらないと思う。
ちょっと非凡くらいでは
こういう前衛性にたいする感覚は
持ち得ない
よほどの破天荒でなければ。。。
芸人道が
一時も足踏みをしていられないほど
常に新しく頭脳を研ぎ澄ましていければならない
厳しい道で、
油断すると
あっという間に頭の上を越され
忘れられていく世界だということを
身をもって知っているのかもしれない。
そのことは
(私の錯覚かもしれないが)
他のコンビよりすこし余裕のあるような気がした
キングコングに対して
頭で漫才をやっていてハートがついていっていない・・と
はっきり言い渡した。
他のコンビがホボまっすぐに
必死で演技しているなかで
彼らの中にホンの少し見えたその余裕というか
油断を彼は見逃さなかったように
思う。
オードーリーの最終戦のネタは
昨日書いたように
他の漫才師にはない
選挙の候補者とそれに反応する聴衆という
立体的なスケール感があり、
実際に漫才を見ている観客は
候補者に反応する聴衆という
擬似的な自分の姿を見ながら
笑っている。
そこには若林という芸人の
舞台全体を突き放して見ている
覚めた目があり
計算があり
コントと漫才を融合したような
立体感がある。
いわゆる漫才・・ということが
時代の流れの中で
変化している事に対する
先見な視点があるように
私は思います。
例えば4回めのチャンピオン
アンタッチャブルを見るとき
私にはどうしても彼らが漫才師・・・ではなく
コメディアン・・というふうにしか思えず、
あえて言うなら劇場型漫才。。でしょうか。
それと同じように
オードリーの場合も
しゃべくりではなく
状況型漫才・・とでもいましょうか、
春日の存在の仕方は
彼に対して確実にある反応をもよおす大衆がいる・・という
状況の前提なしでは成り得ない・・という存在の仕方で、
常に観客を取り込みながら
増幅していくスケールの中に
お笑いがある・・という
現代のインターネット社会における見えない大衆を
包括した芸・・だなあーと思います。
舞台にたちながらも
顕在しない数知れない大衆のなかの普遍的な笑いを
どう取るか・・・?
果てしなく広がるこの情報空間のなかで生きる人間の笑いを
どう構成していくか・・という実験の
第一歩のような気がして
見ていました。
自分達の投げた笑いが
直接的な反応として帰ってこない、
それは電波というひとつのクッションを置いて
帰ってくる・・という今の時代の笑いにたいする
芸のありようを
垣間見せてくれたような気がしました。
そういう時代の前衛性にたいして
ただひとり反応したのが
中田カウス師匠のような気がします。
人生が笑いまみれで
笑いで頂点にいき、
笑いでどん底に落ちる
笑いの天国と地獄の番人
人格失墜
どうしょうもない
ダメ人間にだけ見えてくる
明日の青空(前衛性)かもしれませんねえー。
でも
スゴイです。