会社へ石を投げる。 |
とても許せないことがあったからです。
自分の夫が勤めている会社へ抗議に行くなんて
とんでもない・・と
ほとんどのひとはおもうでしょうねえ。
しかし私は自分の大切な人生の時間を
泥足でずかずかと侵食してくるならたとえ
会社といえども戦います。
すべては会社、仕事優先という
錦の御旗のもとに
自分の大切なものがなし崩し的に踏まれていき
そういう無力感のなかで私のこの30年があったと
思っています。
今の若い人たちはちゃんと割り切り
会社とか仕事というものに
それほどのめりこむということは
余りないでしょうし、理解できないかもしれません。
まあでも、
個人は集団に逆立ちしますから
個人を突き詰めていけば
必ず集団(会社)とは対立の関係になっていくはずです。
単に生活の糧を得るために経済活動だ・・と
割り切っていても、集団に入った限り
その集団の論理や文化に吸収されていかざるを
えないからです。
並立させるということは
とても難しいことだと思います。
そして
一日の大半をそこで過ごす限り
会社での関係性の濃度の方が当然
密になります。
潜在意識的にも
そこでの関係性の維持のほうに
意識の比重がいってしまいます。
悪くすると
いわゆる疑似家族のような関係さえも成立して
しまいます。
当然そういう関係性に対応できない人間は
会社を去るか、阻害されるか・・になるでしょう。
家族と過ごすよりも、
会社の人間と過ごすほうが
楽しく、またお互いに共感も多い。
家庭はエネルギーを使い果たしてしなびた自分の
単なる寝床で、時には会社の反動のはけ口として
そこに消化しきれない感情の残骸の排泄や希望のない
人間の疲労がたまっていくばかり。
よほどね
よほど、そのことを自覚的に、意識的に
コントロールしていないかぎり、
人間はどうしても安易なほうへ、いくでしょう。
また、そういう風に自分を自覚している人を
私は余り見たことがありません。
会社という囲いの中で仕事という
関係性で完結していく聖域!
その聖域を守りながら
会社は成長と繁栄を手にしていく。
そういう会社や社会のメカニズムを抱えた中で
子供を育てる女達の孤独と疎外感は
とても大変だったと思います、自分も含めてね。
家の父ちゃんも会社にのめりこみ、
家族には目もくれず、
都合が悪くなると会社に逃げ込み、
錦の御旗だか、水戸黄門の印籠だかを振りかざし
わたしを平伏させてきました。
欝になりながらも
頭が三回もハゲながらも(笑い)
わたしも家族もよく頑張ってきたなーと思います。
しかしそういう風にね、頑張ることははたして
どうなのか・・と私は思います。
それに悲しいかな
私が一番花盛りだった30代から40代そして50代の前半を
本当に暗く失意のなかで、おめおめと手をこまねいて
失ってしまいました。
今から考えると
本当に無念です。
もっと早く戦うべきであったと
思います。
会社という聖域に逃げ込むなら
その聖域に行って戦おう!
気ちがいとか変人とか言われても
かまわない。
自分の心がドンドン無力感や絶望感に満ち、
その反動で心のバランスが崩れていく。
自分の中のエネルギーがどんどん奪われていくより
戦おう・・。
そう思いました。
こんな会社のあり方もおかしい、
こんな社会もおかしい
それに基づいたこの社会の繁栄も
おかしい。
もちろん一番おかしいのは
家族ヨリも会社を優先する父ちゃん
です。
ただひとつだけ彼を弁護するのは
こういう日本の会社の文化の中、また
激しい企業競争のなかで、
自分の意思や志を貫徹していくには
父ちゃんなりの限界ぎりぎりだったかもしれ
しれません。
しかし
やっぱり、そういう無理をし
犠牲者の上に築いた
日本の繁栄は瓦解していきましたね。
日本人が自分の全体性を失ったように
会社も全体性を失い
底辺を支える人間達を安易に切り、
その欠落をパートとか派遣とか
ご都合よく使いまわす、という
●人間の扱いを、安易に軽んじてきた結果が今
出てきたと思います。
にんげんの存在が稀薄に扱われる中で
私達はなにを築いてきたのでしょうか。
日本の繁栄の中で、会社にしばられたくない、
個である自分をその集団に埋没させてたくない・・という
多くの若者の出現や、
老後の自分たちの安寧のほうが一番大切で、
ひたすらお金を溜め込んでしまう老人達。
そこには
社会というものが全体をリンクさせて動くなどという認識など
ありません。
自分たちの時代を
そして次の時代をどう創造しようかなどという
未来へ展望も理想もなく
ただくたびれきって
自分のことばかり守って生きている
人間達の群れです。
私は父ちゃんと会社を遠くから
無念と羨望のなかで見ながら
中心にいる人間には決して見えないであろう
その廻りの暗がりを見てきました。
そして
その澱んで沈殿する風景に対する危惧をしてきましたが
今まさにそれが現実とってなって
立ち起こってきました。
自分たちの文化と風土だけで完結し
肥大化した会社(集団)が
どんどん倒れていきます。
今だに
人間はみんながリンクしながら生きているんだと
自覚もないまま、
なんの救済もてだてもせず、
政治も企業も無能の立ち往生です。
本当はワークシェアなんて安易なものでは解決できない
この日本の国のアイデンティテーのひずみです。
ゆがんだ人間の関係性の上に胡坐をかいてきたからです。
人間や社会や企業の縦軸しか見えない人たち。
経度はあっても緯度がない世界。
もうズーッと以前から私は父ちゃんに
企業は人間の心理について勉強したほがいいよ・・と
何度も忠告しました。
それはあのセブンイレブンの社長の言うように
心理学からクライアントの購買動機を探るというのではなく
人間の心理は科学で、
必ず論理的に帰結していくからです。
それは会社の存在の仕方、
社会の存在の仕方
そして
人間の存在の仕方が問われ、それが
やがて大きな帰結として
結果を産むからです。
それは冷徹なまでの、
人間洞察と考察と思惟と分析そして
具体的な行動、実践そして
平たい言葉で言うと
自分が一番見たくないもの
かかわりあいたくないもの
受け入れたくないものまで含めて
大きな視野と世界観が必要です。
聖域を作ったり、その組織に対して
無力感に溢れる人間を作ったり
くだらない形式的な関係性や
自分たちの側からしか世界が見えないようでは
とてもとても、為し得ることなんか出来ない。
私の今回の怒りの底には
そういうことが見えなくなっている
会社のひとつの先端的現象として
猛烈に腹が立つことがありました。
起きたことは取るに足らないコトかもしれませんが
その奥には、自分たちのことしか考えていない
驕りがあります。そしてさも当然の如く会社が優先され
私たちのプライベートな領域を平気で侵食して
来ました。
むかつきました。
と父ちゃん{社長)へガツン
そのまわりの人間へガツンそして
会社へガツン・・と石を投げずには
いられなかったからです。
それは単なる私の個人的嘆きと怒りかもしれなが
それを投げてもどうなるモンでないかもしれないが、
それでも投げる。
巨大なるバベルの塔の足元にしか届かないかもしれない
けど
投げる
投げないとわたしまで
潰される
呑み込まれる。
たった一人で戦うんです。
無視されても
冷笑されても
自分の魂を
守るために、
あきらめないために
投げます。
会社って、
いったい
なんですか・・・・・・・・・・・。