神の配役・・・! |
マスカーニーのカヴァレリア・ルスティカーナの
間奏曲が頭の中を巡っている。
オペラの内容はドロドロの男女の愛憎だが
この間奏曲の優しくて美しい・・こと。
愛憎の中でうごめく人間を神が天から
見守っているような慈しみを
私は感じる。
広隆寺の弥勒菩薩半跏像のように
天上から下界の人間模様を
静かに見守っている・・というような
想像が掻き立てられる。
若い日に読んだ亀井勝一郎の本の中に
そういうことが書いてあったように
記憶している。
私の周りにも
私がどうしても好きになれない人や
自分のことしか
考えていない利己的な人間や
冷淡極まりない人間
まあ
わたしも人格者ではないので
受け入れられない人間は
数々いるが、
この曲を聴いていると、
ドンナ嫌なやつでも
その人生をぐるりと見渡すと
きっと傷や悲しいことをたくさん
身体に受けているんだローナーと
赦したくなる。
いろんなことが起こり、交叉し
衝突し、反発し
そういう渦の中で人は生きていているのだろう・・という
何とはない思いが湧いてきて、
そういう風に抽象化された”人間”というものに対して
大変だなーという共感が湧いてくる。
そばにいたらもう
がまんならない奴で、
衝突ばかりするかもしれないし、
嫌なことやあくどいことを
されるかもしれないヤツに対しても
この曲のなかで私の心が洗われながら
そして誰もが抽象化されてきて
人間そのものにたいに対する共感が
湧いてくる。
傷も問題もないところに
慈しみの感情はおこらない。
自分が無力である絶望や
手をこまねいて見ているしかない
あきらめの中で傍観するしかない時
悲しみに蔽い尽くされた自失の裏に
ひとは
実は大きな大きな世界を獲得している。
自分を明け渡し
小さな傍点のようになった自分の視界のまえに
大きく広がる荒野は
そこに無数の亡霊と化した人間の姿を見る。
その中にまぎれもなく自分がいることを
私は発見する。
姿かたちはそれぞれ違っても
その荒野にうごめく人間にたいする
哀れみや共感や慈しみを
私たちが手にするとき
神の配置した役を演じながら
私たちは自分の歴史を造り
世界を築き彩ってゆく
誰もが
誰一人として欠落がないその神の掌。
そういう世界を私たちは
自分の宿命と闘いながら生きている。
そういう大いなる秩序の中を
生きている。
善きことも
悪しきこともすべてが網羅されながら
この世が成立していくこの不思議は
何なのだろう・・・。
宿命の中で配された
神の配役を
私はどう生き
どう完結するか
問われているなーと
この間奏曲を聴きながら・・・、
そう思いながら
そう
思いながら
ねえ・・。
・・・・・