序章 欲しいのは普通の幸せ・・・? №1 脅かされない・・・。 |
そろそろ
自分なりに探求してきたこと、
考え続けて来たことの集大成かな・・と思い始めたところへ、
そのヒントとなるべく香山リカさんの本の目次が
考えを整理するのにちょうどいいかなーと思い、
勝手に拝借し、その目次に添って
少し書いてみようと思います。
第一章、ふつの幸せとは ○脅かされない
私にとって幸せとは、
今でも物心ともに、十二分の幸せであるが、
あえていうなら
「脅かされないこと」だと思う。
ナニモノにも脅かされない。
日々の日常の中に様々に忍び込んでくる
不安や、怖れや怯えに、動じない・・。
たいがいの人がいくらお金や物があっても
または最近捕まったアイドルの女性のように
大衆からスターと支持されてても
それが幸福・・・・とはいかない・・ことを
知っている。
お金や物が足りていることは、
それはそれである種の充足を得られるが、
お金や物も
自分の心の投影であり、
その心のほうが、充足されていない限り
お金や物に対する依存の欲求は
際限なくなる。
また心の欲求も他人に依存にしている限り
陽炎のような他者幻想の罠にはまり、
愛情や保護を求めてさまよっていく。
酷な事を言うようだが、
他人はささやかな親切や、ホン少しの
ぬくもりはくれるけど、
自分の心の荒野をなど
充たしてくれるはずもない・・。
それは夫婦であろうと親子であろうと
恋人であろう・・・同じです。
そういうことをあきらめて
自分と言うものを見わたしたとき、
いかにも頼りなく
弱々しい自分をいかに
成り立たせていくか・・。
それは自分にこびりついている
不安や怖れやおびえを
ひとつずつ剥ぎ取って、その正体を証し
自分の空白の陣地を埋めていくことだと
私は思っている。
私達の中に忍び込んでいる不安や怖れのほとんどが
幼児期に刷り込まれたもので、
両親や周りの大人たちの影が、
無意識から無意識へとバトンされていく。
不安や怯えの根源には、
”命をまもる”という危機管理のセンサーが
危険に対してのサインをおくるのだが、
長い歴史の中でそれらはたくさんの幻影を吸い込み
膨張し、物語りに脚色されながら
人間の深層の中に棲みこんできた。
あたかも
不安や、恐れが実態のあるもののように
私達は思いこんでしまっている。
大きなものは戦争や紛争の根源にある危機意識として
小さなものは、
個人の内面のなかの
さまざまなコンプレックスの裏に張り付いて、
私達はその幻影に取り付かれ
脅かされ
愚かな行為をしてしまう。
自己防衛や他人への牽制や
支配欲や征服欲、
裏返っての過剰な謙譲や服従や譲位
それはほとんどが
仮想された不安や恐れの裏返しである。
私たちはともするとこういう実体のない
幻影に惑わされ、エネルギーを奪われ
意識や行動にブレーキをかけられ、
人生をヘトヘトに使い果たしてしまう。
もし
幸福と言うなら
こういうことに惑わされず、
ほんとうに淡々と生きれることだと
私は思います。
様々直面しなければならない現実の厳しさのなかで、
安藤忠雄さんの言葉ではないけれど
苦しみながら考える。
そしてもしその正体をつきとめられたら、
自分の中の不安や恐れを、
蹴っ飛ばしてしまうことです。
ほとんどが仮想のもとに
思いこみ、
或いは思い込まされている
自分の内面から脅かしてくる
怖れや不安を
「意識的に捨てる」
そう覚悟を決めるだけでも
随分違ってきます。
また、
体の中に張り付いている不安や怖れの感覚は
コツコツと自己暗示したり
リラックスした状態で
息を吐きながら「不安よ出て行け」と言葉で吐き出すなど
ゆっくりと時間をかけながら
あきらめないで捨てることだと思います。
ゆっくり
時間をかけて自分の中の垢や毒を掃除していく。
そのプロセスの中で
”幸せ”と言うのが見えてくると思います。
自分がこだわっているものの本質はなにか・・・?
なにが自分を脅かしているのか
それを見つけて
つまみだす。
そうして最後には、
不安や怖れがあったからこそ
それらに守られて自分が生きてこられたということも
認識し、感謝しながら
告別することだと思います。
そういう不安や怖れを抱きながら
ドンナに大変な道のりを自分が歩いてきたか、
人生の戦友でもあるそれらに対してね・・。
香山リカさんが書いた「ふつうの幸せ」のふつうとは
何をさすのかわからないけれど、
おそらくドンナ人間も他人には分からない苦しみや悩みを
抱えていきている。
ふつうとは
自分だけが・・・ではない、・・という
そういう世界を共有して、あきらめながらも
淡々と現実に直面して生きている・・と言うことではないか・・と
私は思っている。
ナニゴトがあっても平然といきる。
私自身
いろんなことに遭遇しながらも
こういう着地点をいつも念じながら
自分の心を立て直して
生きています。
不安や怖れ、
追放できると
いいね・・。
きっと
元気がでてくるよ!
・・・・つづく・・・
あたたかい思考が載ったコトバに、胸をうたれまして、
コメントをさせていただきます。
ワタシは、いま二十代の前半です。
社会に踏み出さんとするなかで、不安をもって生きています。
そういう自覚が有ります。
ですから、
”怖れや不安を「意識的に捨てる」”
という考え方に共感しました。
ただ一方で、自分にそれはできるのだろうか?
という疑問がわきました。
ある意味で「不安によって生かされている」という
認識もまた有るからです。
捨てるべき恐れや不安の上に立って生きている。
そんな風に感じるのです。
(守るものや支えるものがない状況故の、
贅沢な思考ですね。)
「依って立つべき足場を自ら捨て去る行為」が
はたして、意識や覚悟で可能なのであろうか?
という風におもいました。
「挑戦していない人間の弱音」として、
一蹴されてしまう考え方だとはおもいます。
ですが、それで片付けて良いのだろうか。
問題は、そこに潜んでいるのではないか。
とおもいました。
長文コメント失礼しました。
「現実を受け入れる」ことはずっと避けてきた分、私の心にとってハードな仕事になると思うのですが、平穏な心になれるように、トレーニングをしていきたいと思います。
コメントしてくださりありがとうございました。